上原良司(22歳)「人の世ハ別れるものと知りながら別れハなどてかくも悲しき」(『いつまでも、いつまでも、お元気で』より)・・」


 

 知覧特攻平和会館編『いつまでも、いつまでもお元気で/特攻隊員たちが遺した最後の言葉』(草思社)、目次には、「特攻隊員たちの遺書・遺影」とあり、33名のものが掲載され、巻末には、隊員プロフィールとして、氏名とともに写真、戦死日、隊名、階級、年齢が記録されている。その中の一人は、


和田照次…21歳


お父さん/お母さん/お元気ですか。(中略)

 酔生夢死(すいせいむし)の人生、無為の人生、といった人生の多い内に敵艦必沈と言う大きな究極の目的をもって閉ずる私の人生は神々に祝福されたものと思います。

 小さい時から肉親兄弟の溢れるばかりの愛情の内に育(はぐく)まれた私は本当に幸福でありました。私の希望或(あるい)は我儘(わがまま)をみなきゝ届けて下さった私の人生は誰よりも幸福であり充実されたものでした。それに引換、我が子として御両親に何ら報ゆる処(ところ)なくして征(ゆ)くを非常に遺憾(いかん)と致します。


 と遺している。本書より、いくつかの句歌を挙げておこう。


 雲を裂き地を挫(くじ)かなん年明けぬ (矢作一郎…23歳)

 わが生命捧ぐるは易し然れども国救ひ得ざれば嗚呼如何にせん (小林敏男…23歳) 

 皇国の弥栄(いやさか)祈り玉と散る心のうちぞたのしかりける 

                             (若杉潤二郎…24歳)

 今更に我が受けて来し数々の人の情を思ひ思ふかな (鷲尾克巳…22歳)

   お母さま

 夢にだに忘れぬ母の涙をばいだきて三途の河を渡らむ  (高田豊志…19歳)

 国のため父母にうけたる精神(こころ)もて我れは散るなり桜のごとく

                            (松尾登代喜‥19歳)

 吾が頭南海の島にさらさるも我は微笑む國に貢(つく)せば (隊長奥山道郎…26歳)

 大命のまにまに逝かむ今日の日を吾が父母や何とたゝへん (渡辺綱三…18歳)


 

★閑話休題・・赤羽礼子・石井宏『ホタル帰る/特攻隊員と母トメと娘礼子』(草思社)・・


 「ホタル帰る 戦中編」のプロローグに、石井宏は、


 「なんや、昭和二十年五月二十日出撃やって。アホか、三か月もすれば終戦やないか。なあ」

 ふやけた平和な会話がそこにある。

 しかし、この人たちも特攻平和会館の中に入ると様子は一変する。そこに飾られれているのは飛行服を着た十七歳から二十歳前後の若者の凛とした肖像写真。それはあまりにも清々しく美しく、その数は一〇三六人に及ぶ。その若者たちの残したみごとな筆跡の遺書。それは申し合わせたように書いている。「母上様、この歳までお育て下されたご恩のほど心からお礼申し上げます」「なにとぞ先立つ不孝をおゆるし下さい」。(中略)それらの写真を見ていれば、「特攻」がなんであったかはわからずとも、戦争がなんであるかは知らずとも、人間として耐えられないほどの悲しみに襲われる。命の尊さ、命の尊厳さ、散った命の不憫さは無条件に心にしみてくる。(中略)この子たちが死んだ、爆弾を背負って敵艦に突っ込んだ、と思えば、人間なら必ず泣けてくる。そう、「特攻」とは是非善悪いっさいを超越した無条件の悲しみなのである。人間のこれほどの大集団がこれほど崇高な存在と化して死んでいったことは、人類の歴史において一度たりともあったためしはないのだ。


 そして「あとがき」には、


(前略)こうして特攻隊についての語り部であるはずの島浜トメは、ほとんど口をつぐんだまま他界したと言っていい。そのトメに添ってあの動乱期を生きた人物が二人いた。一人はトメの長女、美阿子であるが、彼女は昭和十九年に亡くなっている。残るは二女の礼子だけで、そうなると、いま島浜トメや知覧から出撃した特攻隊員についての語り部となれるのは、この人をおいてほかにはないということになる。彼女は事実、多くの人から「礼子さん、あなたの知っていることを書いて残しなさい」と言われてきた。

「しかしわたしには書く手がない」と赤羽礼子さんはその席で言われた。そこで、僭越ながら、私がその書き手になろうと申し出たのである。(中略)

 赤羽礼子さんは、知覧飛行場で「なでしこ隊」として奉仕していたとき、グラマンの機銃掃射を受け、眼の前に敵の飛行機がのしかかり、敵の操縦士の顔を間近に見たときのことをいまでも夢に見ては、その恐ろしさに悲鳴を上げて飛び起きることがあるという。戦争の傷跡はまことに深く、私も本稿を執筆しながら、ティッシュの山で仕事をした。それは涙なしには一字も書けないような話の連続であった。


 と記している。

 石井宏(いしい・ひろし) 1930年、神奈川県生まれ。



    撮影・中西ひろ美「シモツケの花咲くほどの色を母に」↑

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