中田みづほ「吊り上げてすこし下げたる灯籠(とうろ)かな」(『新潟医科大学の俳人教授たち』より)・・
中本真人著『新潟医科大学の俳人教授たち』(新潟日報メディアネット)、「あとがき」ともいうべき「おわりに」は、
新潟大学に奉職してから、早くも一〇年が経とうとしています。
新潟に赴任することが決まったとき、かつて高野素十、中田みづほらが教授を務めた新潟大学に、自分も勤められることが素直に嬉しかったのを覚えています。というのも、私は大学生のころから二〇年以上俳句を詠んでおり、俳人で、。大学教員であった素十やみづほに憧れていたからです。そのため、宮廷の御神楽を中心とする古代古典芸能史を研究する一方で、いつか新潟ゆかりの俳人について書いてみたいと考えていました。
そじて、冒頭の「はじめに」には、
或は十年二十年百年と経つうちに本当に俳句の道は新潟よりはじまつたといふことになるのかも知れぬ。
(髙浜虚子「なつかしい情緒が後をひく」「まはぎ」昭和一三年一月号)
大正一一年(一九二二)、官立新潟医学専門学校が医科大学には、医師として、また俳人として活躍した四人の教授が務めていました。中田瑞穂(俳号みづほ)、高野与己(よしみ)(俳号素十)、浜口一郎(俳号今夜(こんや))、及川周(まこと)(俳号仙石(せんせき)の四人は、全員が明治二十六年(一八九三)生まれ。東京帝国大学医科大学を卒業した医学者であると同時に、俳人の高浜虚子に師事して『ホトトギス』同人(どうじん)となりました。(中略)
冒頭に掲げた一文は、中田みづほの主宰誌『まはぎ』が一〇〇号を迎えたときに、虚子が寄せたものです。虚子は、新潟の俳人たちの実力を認め、さらに強い期待を寄せています。ちょうど四人の教授が揃って活躍していたころでした。
また、「第三章 花鳥諷詠の拠点 新潟医科大学」には、
1.武蔵野探勝会の新潟開催
昭和一二年(一九三七)正月、武蔵野探勝会(むさしのたんしょうかい)が新潟で開催されました。武蔵野探勝会は、昭和五年に髙浜虚子を中心とする吟行会です。毎月一回実施され、同一四年までの一〇〇回続けられました。その名称の通り「武佐際」を探訪することが目的で、)吟行地の大半は東京近郊でしたが、第七七回は新潟で開催されました。
と記されている。ともあれ、本書中より、いくつか句を紹介しておきたい。興味のある方は直接、本書に当たられたい(「ブックレット 新潟大学」新潟日報メディアネット刊)。
街路樹の夜も落葉をいそぐなり 高野素十
千二百七十歩なろ露の橋 高浜虚子
起し絵の義士の一人を焦(こが)しけり 浜口今夜
ハイデルベルヒ エンデルレン先生
刻々と手術は進む深雪(みゆき)かな 中田みづほ
山荘を出づれば東風の強きかな 中田萋子(しげこ)
蝶々のしきりに飛べリ花疲(はなづかれ) 及川仙石
泣初めのにぎやかなりし古きこと 中村力中
風除のうちのにぎやか嫁迎へ 家田小刀子
学長の御用始の印を捺す 山内大刀
撮影・鈴木純一「里道も都大路も十文字」↑
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