紫虹「彼が言う『無い袖振れない 僕には』/そりゃそうでしょ ノースリーブだもの」(『立たんか短歌 這い這い俳句』)・・


  紫虹(しこう)『立たんか短歌 這い這い俳句』(冨岡書房)、帯の惹句に、


 帯書き落書き悪あがき

 頭の中を覗いてみたい/希可人の詠んだ抱腹絶倒短歌

 だってお腹の手術をしたんだもの(痛かったの歌、ですって?)

 未だ絶倒は、後にしたいな


 とあり、本書カバーの装画も著者。そして「まえがき」には、


 最初は、退屈凌ぎにベッドで唱えていた短歌調の怪しげな私の歌を耳にした夫が、「面白いから書き留めておいたら」と。そして今度は「本にしたら」と勧められ、出版する運びになりました。

 私の父は、若い頃より俳句を嗜む人で、義兄も夫も俳人で、私もいつか俳句を書きたいと思っていました。

  しかし、ステージⅣと五年ほど前に告げられた私。形に残せるものならと、出版をしぶしぶ承知しました。(中略)

 しかし、まだ元気。

 今はそういう時代です。

 日々進歩を続ける医療と、お医者様方に感謝!(中略)

 一回として、前回測った体重を下回らぬ私の「ウエスト・サイズ・ストーリー」は、まだまだ続くのでしょう。  /おちゃのこ妻々


 とあった。また「夫っと」の「あとがき」には、


傍らのベッドに寝ている妻が、突然叫びだすのである。歌を歌いだすときもあれば、短歌や俳句らしきものを大声で叫ぶこともある。

 殆ど一日中ベッドの上に居る妻にしてみれば、退屈で仕方ないのだろうし、叫ぶことでうっぷん晴らしになるのかもしれない。しかし、横で読書に集中している私にすれば迷惑な話である。(中略)

 そこには、妻の生活の折々に感じられた言葉が生のまま投げ出されている。何十年も短歌や俳句と関わってきた私からみるとこうは作れないなと溜息がでる。

 つまり、短歌や俳句という形式への何らの伝統的な知識も先入観もなく、また世間体や躊躇いもなく、感じたことを生のままで形式にのせているのだ。そこに、妻の独自とも思える拡散思考が、言葉の飛躍を生み出してゆくのである。私が、形式への何がしかの、新たな展開の可能性を垣間見てしまう所以である。


 とあった。ともあれ、本集より、以下にいくつかの作品を挙げておきたい。


  病院が ほとんど唯一の お出かけ日

      院内ランチに 往復ドライブ         紫虹

  

  考えれど 浮かばぬ短歌に 四苦八苦

       立たんか短歌 わが心もて


  チョコを出し「玉露のトリュフ」と 夫が言い

        「ドクロのトリュフ」と 私に聞こえ


  コロシアム 昔は殺し あいがあり

        私も転んで コロっと逝くことに


  お惣菜 遅うなっても 食うている

      眠気がおそう 恐ろし夜中


  お出かけは 天気と元気が 揃ったら

        夫が継ぎ足す 「その気になったら」


  最終章 採集しようと 励みおり

      最終電車に 間に合うように


  玉手箱 たまたま海で たまに手に

  くだらない 話を流す 管が無い

  夫婦して 三途の川を 泳いでる

  ニジンスキー 虹が好きとは みじんも知らず

  茶番でも あるだけましな 出番です

  思い草 重い思い出 背負い咲く



  鈴木純一「日和見や八方美人といわれても春の嵐のどこふく風」↑

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