東直子「何度でも生まれかわって海になる棘を育てて咽喉を鍛えて」(『魚を抱いて』)・・

 

東直子『魚を抱いて/私の中の映画とドラマ』(春陽堂書店)、その「はじめに」に、


  初めて友達と映画館で映画を観たのは、広島に住んでいた頃、確か中学一年生のときで、路面電車に乗って街中に行き、実写版の『シンデレラ』を観ました。ストーリーはよく知っているので物語を復習するように観つつ、胸が大きく開いた色っぽい衣装にはっとしたり、映画を観たあと、友達に誘われてマクドナルドのハンバーガーを初めて食べたのもよい思い出です。(中略)

 かつてどこかで観て心に残っていた映像作品を、配信サイトを駆使して改めて観直しました。一度観ただけでは気づかなかった工夫に気付いたり、脇にいる人の気持ちに改めて気付いたり、その人に合ったファッションに感心したり、風景の美しさを再認識したり、そうして映像作品の中の世界を胸に熱く抱きながら、エッセイを書き、絵を描き、短歌を詠みました。それぞれの作業は脳の使いどころが違うようで、思ったよりも時間がかかりましたが、好きなものの好きなところにについて書いたり、描いたりすることは、至福の時間でした。


 とあった。中の一篇の一部分だが、紹介しよう。


  『歩いても 歩いても』(2007年)

            監督・脚本=是枝裕和

            出演=阿部寛、夏川結衣ほか


   確かに生きていた  (中略)

 純平が助けた少年は、大柄な青年に成長した。とし子はその青年を純平の命日に招き続けていて、この日も汗をかきながらやって来る。不器用そうなフリーターのその青年は、助けてもらったお礼を述べ、恐縮しながら帰っていく。彼が去ったあと、恭平は「あんなくだらんやつののために(息子は死んだ)」と言い、他の家族もひとしきりからかう。良多だけが青年をかばい、命日に呼ぶのはやめてあげるように提案するが、とし子は「一〇年やそこらで忘れてもらっては困るのよ」と言い、明確な悪意を持って青年を呼び出していることがわかる。このあたりにくると、とし子が無意識のうちに抱え込んでいる狂気を感じる。一方で、とても切実な感情にも思われ、人間が抱えている普遍的な業について考えてしまう。(中略)『歩いても 歩いても』という表題は、意外なところから取られていることが映画の後半で判明するのだが、絶妙なタイトルだと改めて思う。「歩いても 歩いても」のあとは「たどり着けない」「見つからない」など、否定形にしか繋がらない。目的地は見つからないけれど、ただ歩くしかない、という意味なのだ。それは生きるということに結びつく言葉でもある。正解は見えなくても、生きて、歩いていくしかないのだ。

  黄色い蝶が追いかけてくる振り向くといなくなりそう、なりそうだから


  

 巻末には、「光の名前 ~映画短歌~」が収載されている。 ともあれ、本書中から、短歌のみぬなるが、いくつかを挙げておきたい。


     『火の魚』

  花を掬うように魚をてのひらに ひとときの芯したたるばかり

     『2001年宇宙の旅』

  お誕生日おめでとうを宇宙まで届けてあげる あなたは息子

     『耳に残るは君の歌声』

  家を船を過去を焼かれてここに来た 白い腕(かいな)を夜へ広げる

     『はちどり』

  心の分かる人はどれだけいますかと光ふるえる夏の最中へ

     『パリ、テキサス』

  風が吹いてふりかえったらもういない君ははなびらそのものだから

     『あのこは貴族』

  赤いジャム指先で舐め桜色の器官の奥に気持ちを溶かす

     『リリーのすべて』

  はるかなるみずうみに立つ裸木よ光たたえる瞳に眠れ

     『スナック キズツキ』

  小鳥たちより集まって水を飲む羽根ほんのりと逆立てながら

     『あ、春』

  また眠れなくてあなたを噛みました かたいやさしいあおい夜です

     『火火』

  火の中に人ひとりいて炎とは二つの人が重なる現(うつつ)


 東直子(ひがし・なおこ) 1963年、広島県生まれ。



     撮影・中西ひろ美「小さくてしかも一日咲けばよし」↑

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