阪西敦子「人の上に花あり花の上に人」(『金魚』)・・
阪西敦子第1句集『金魚』(ふらんす堂)、跋は稲畑廣太郎、挿画は母上の阪西明子。その跋の中に、
(前略)夏草がボール探しの邪魔をする
手に持ったラケット重い春の暮
「ホトトギス」では「生徒・児童の部」として雑詠のコーナーの最後に小学生から高校生までの投句欄を設けて雑詠選をしているのだが、彼女は小学生から高校生までその欄に投句を続けられた。最後に「小赤」と題された章ではその生徒・児童時代の作品がきらきら星のように並んでいる。私事、よく自分のプロフィールに「幼少の頃より稲畑汀子の下で俳句に親しむ」という意味のことを述べているが、彼女こそそれを作品で証明しているのである。
とあり、帯文には、
ラガーらの目に一瞬の空戻る
稲畑汀子の言葉として「見るから観るへ」というのがある。これはただ眺めるだけではなく、その奥にある季題の本質を探ることが大切であるという意味だが、まさにそれを実践した素晴らしい作品群である。
とあった。また、著者「あとがき」には、
はじまりは、炬燵の机板の下から引き出された広告の裏だった。白だけではなく、薄いピンクや蛍光に近い黄色、艶のあるものや厚手のもの、いずれも元の大きさの半分か四分の一に切ってあった。離れて住む祖父母の家の炬燵の祖母の隣で、私は俳句を作り始めた。そして四十年が過ぎた。
俳句を続けた私に祖母が何を思っていたかはわからない。ただ、俳句を作る人に悪い人はいないと、たびたび聞かされてきた。
とあった。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するがいくつかの句を挙げておこう。
子の一人くらゐは消さむ花の山 敦子
かなかなの途切れて雲の疾さかな
みづうみのけふの平らよ草の花
新酒酌む神保町は狭き町
秋の夜をうらに返して雨となる
帰り花揺るるため人揺らすため
日なたぼこのどこかをいつも風通る
噴水の消してしまひし肩車
ときをりは火色のよぎる秋思かな
熱燗のところどころを笑ひけり
顔いつも日に囚われて空つ風
節分の鬼を解かれし胡坐かな
抽斗を出てふたたびの飛花となる
最終電車鉄の匂ひや後の月
入学の道のふはふはして来たる
夏燕水愛すとは空愛す
ノーサイド枯野へ人を帰しけり
こはくないひとつひとつの桜かな
太陽のはうへビールを持ち歩く
水中花今宵叫びてゐるごとく
東京のどの渋滞も黄落す
鳥声も鳥影も冬あたたかし
人しづかなればしづかに町の蜂
とびばこの五だんとべたよ春の風
乗るはずの電車に抜かれ梅雨曇
父に勝ち母にも勝ちて歌がるた
阪西敦子(さかにし・あつこ) 1977年、神奈川県逗子市生まれ。
撮影・中西ひろ美「告白す実はさくらが好きでした」↑
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