久保田和代「腹這いて内緒話や黄たんぽぽ」(第27回「きすげ句会」)・・

 

 本日、3月28日(木)は第27回「きすげ句会」(於:府中市中央文化センター)だった。新メンバーのお二人を加えて、少しにぎやかな会となった。また、「きすげ句会」第三集の文集も会員人数分だが、手作りで作っていただいた(会の歩みが分かるから不思議だ)。



 本日は、会としては初めて、席題「黄」を一句を出し、即吟を行った(10分で一句だったから、嫌がっていた人も、句は何とかできるものだ、ということを実感されたと思う)。  ともあれ、以下に一人一句を挙げておこう。

  出歩けばやつれて帰る猫の夫        井上治男

  鳥の恋吹けぬ口笛口窄(すぼ)      濱 筆治 

  空蝉の安楽ではない安楽死         杦森松一

  「おばちゃーん」と証書を窓に卒業す    高野芳一

  芋の色即是空説きにけり          寺地千穂

  蕗の薹友は健在か酢味噌和え        井上芳子

  天井にゆらぎうつして春の水        成沢洋子

  空跨ぐ雲遊ばせて水溜り         久保田和代

  ホワイトデー「義理と人情」舐めんなよ   忌木曉一(いまわぎ・ぎょういち)

  春雷の間遠に響き犬びっくり        清水正之 

  養花天どこからか古き戦闘機        大井恒行



 ★閑話休題・・救仁郷由美子「遠逝を生きて今此処大花野」(「秋」3月号より)・・


 「秋」3月号(秋俳句会)表2の佐怒賀正美「続・らくだ日記(九十六)」に、救仁郷由美子の句を採りあげ、心のこもった鑑賞をしていただいた。深謝。その中に、


  救仁郷由美子氏は一昨年七十二歳で逝去された。「豈」での安井浩司論に惹かれていたのだが、今回「豈」誌上での「全句集」によって、作者の俳句を見渡すことが叶った。

 出発点は日常生活の哀歓に始まり、子どもを含む懸命に生きる者への共感、そして社会批評・人間批評と多彩で、切実な心情が独自の認識と現代詩的文体で読者に届く。(中略)

 句集の途中からは、(おそらくは闘病の)内的風景句が増えてくる。〈脱(だつ)髪の脱(だつ)身心や水面の月〉〈遁れ端の痛みは白き曼殊沙華〉〈僻んだ心痛み痛みて満月よ〉〈羨めば醜い貌鳥捨て往こう〉など心との対話を独自のイメージに結ぶ。〈怖いと無く子どもじぶんの子守唄〉に至っては、恐怖心に対して泣き叫ぶしかない。その泣き声は幼少の時分の子守唄の記憶と重なりながら、やがて泣き疲れて寝る落つ。

 もう一つの主題は、それらと,無縁ではない「生と死」。〈垂直に流るる現世死の水平線〉〈萩の野に生酔夢死の小屋一軒〉(中略)

 冒頭の句はこの流れの中に入るであろう。作者は「遠逝」という疑似彼岸の世界を生きてきて、今ようやく「此処」である現世の「大花野」に辿り着いたと。その終末意識には、芭蕉の枯野句とは対蹠的なベクトルを見る。不思議な幻想的実感とでも言いたい時空の終着点として、作者は此岸の「大花野」に救済されたのでらろうか。〈葉桜の木の間漂う宇宙母顔〉という不思議な句と併せて、作者の宇宙意識を垣間見た気がした。


 とあった。


     撮影・中西ひろ美「のびのびて弥生の空を近うする」↑

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