澤好摩「燃えながら日はつめたけれ凧」(「弦」第46号より)・・


 「弦」第46号(弦楽社)、「弦」は遠山陽子の個人誌。2023年1年間の句が各月別に収められている。エッセイは遠山陽子「私の俳句人生(二)」、「西東三鬼を読む(2)」と、山田耕司「澤好摩との時間を振り返って」。その中に、


 (前略)十九歳から二〇歳の山田耕司にとって、澤好摩は、世界の窓であった。二〇二三年の現在において、山田は五十六歳になっているけれど、あの頃の衝撃はいまだになかなか更新されていない。あの頃、澤さんは四十二、三歳だったのだと、円錐九九号「追悼澤好摩」において年譜を編集していてあらためて気付かされた。(中略)

 澤好摩らしさ。それは、長い期間を経て磨き上げた「自らの消し方」にあった。ずいぶんと逆説的な言い回しになってしまうけれど、自分の消し方を工夫することでこそ、澤さんは自分らしさの手応えを得ていたのではなかと思う。

   山山の傷は縦傷夏来たる      三橋敏雄

 俳句作品の見事さを語るときに、澤好摩が引き合いに出す句のひとつ。

 夏の山は、雪が溶けて黒黒と。(中略)雪渓を「傷」と見立てることもできなくはないだろう。しかし、「傷は縦傷」と表現することは、誰にでもできることではない。書かれることによいって、現実の映像よりも深く読者の中に刻まれる印象。俳句には、それが大切なんだ。

 澤さんは、そう言った。


 とあった。ともあれ、以下には、遠山陽子作品をいくつか挙げておこう。


  初日待つ分厚き虚空ありにけり      陽子

  にやにやとにんぐわつが来る青鞋忌

  うぐひすや墓向き合ひて照り合へり

  子規に律賢治にトシや春夕焼

  袋蜘蛛火宅の裏へまはりけり

  世界中まだ戰あり家に蠅

  木を離れ白桃の欝はじまれり

  九十歳の夢無くもなし夏の月

  赤ん坊の首ぐらぐらと風の盆

  蕪村忌のさて灯の亰へ参らんか

  見えぬ手に頭たたかれ三橋忌



★閑話休題・・澤好摩「甕抱きし双掌を解けば翼かな」(「俳壇」4月号より)・・

 澤好摩・山田耕司つながりで「俳壇」4月号(本阿弥書店)は、特別寄稿に山田耕司「ゼロの翼―—澤好摩の軌跡」。それには、

 

 (前略)熱燗が届く。徳利の口と底を手に持って、そっと傾ける。手元の猪口に、酒が注がれ、裸電球が映り込む。

 一九八五年、四月。東京、代々木上原。

 「いい受け方だ」

 澤好摩は、徳利をテーブルに戻すと、そう言って自らの猪口を口へと運んだ。山田耕司は、掲げた猪口の熱燗をそっと舐める。

 「盃とは、胸元で受けるもんだ。肘を伸ばして胸を突き出したまま注いでもらうもんじゃない。そんなことをしたら、高柳さんに叱られるからな」

 居酒屋には八代亜紀の曲が流れていて、干物を焼く匂いが満ちている。(中略)

  澤好摩はゼロの翼を持っていた。社会的な事象であれ俳壇的な潮流であれ、それらへの紐付けから自らを解放する翼を持っていた。それは、孤独であることの豊かさをも示す。孤独であることの豊かさ、それは澤好摩の軌跡から学んだ大きな点である。(中略)

 澤好摩の逝去の報は、七月七日の午前中にもたらされた。

 亡くなる瞬間に立ち会うことは叶わなかった。

 一両日口ずさんでいた句を、あらためて呟いてみる。

 砕け散った甕は、もう元に戻ることはない。しかし、言葉の中の甕は、今日も、落下し続けている。


 とあった。代々木上原とあるのは、その当時、澤好摩はその地のアパートに住んでいた。



     撮影・芽夢野うのき「まだ咲かぬまだまだ桜は桜籠」↑

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