富澤赤黄男「草二本だけ生えてゐる 時間」(「現代俳句」3月号より)・・
「現代俳句」3月号(現代俳句協会)、巻頭エッセイ「直線曲線」は伊東類「日本語教室で学ぶ」、論考に大井恒行「1970年代の俳句論/『社会性から自然への成熟』と『過渡の詩』」、井口時男「新興俳句逍遥(11)/詩と俳句の間で」、また、「俳句と私」には、高橋修宏「わが俳句前史―—あるいは、出会いそこねの記」。井口時男「詩と俳句の間」には、
新興俳句運動において最初にその詩性(ポエジー)の新鮮さが謳われたのは高屋窓秋だった。(中略)
山鳩よみればまはりに雪がふる
一方、「まはりに雪がふる」をもう一度使ったこちらは、孤独な視線が孤独に感じる一人芝居のようである。(中略)
私が物語だのドラマだのと書いたのは、これらの純化された心象のイメージが、すべて、時間の流れを含みこんでいるからである。〈頭の中で〉の〈なつてゐる〉がそうだったように一瞬の光景のようでありながら、窓秋の句はひそかに持続する時間を、つまり物語と抒情を内蔵しているのである。(中略)
私は以前、句集『天來の獨楽』に収録したエッセイ「草二本だけ生えてゐる」で、先の赤黄男の二句を引いてこう書いた。
《ここから先へは、もう行き場がない。実際、晩年の赤黄男は沈黙するしかなかった。
こうして私は、俳句が詩を羨望することの必然性と俳句が詩になることの不可能性とを、同時に知ったのだった。「現代」の表現として、俳句は詩を志向しなければならない。しかし、俳句は詩を志向してはならない、ということだ。これが「現代の」俳句を拘束するダブルバインドなのだ、と私は思った。》
今もこの思いは変わらない。詩性と俳句性に挟まれて、ダブルバインドに縛られながら、活路は各自で拓いていくしかないのだ。
とあった。ともあれ、本誌本号より、以下にいくつかの句を挙げておこう。
大風車運河に映り冴え返る 中村和弘
旧作のように花菜の中にゐる 伊藤政美
八手の花貧困のごとはびこりぬ 堀之内長一
君のゐしあとに菜の花こぼれをり 五十嵐進
ちぎり絵の一片(ひとつ)が消えて蝶生まる 山本敏倖
三界はいずこに置きし椿餅 久保純夫
御舟が来るよNTT慰霊碑は浅春 たかはししずみ
蜆汁些事に終はらせたまひけり 津髙里永子
壊滅の街の白地図水温む 花谷 清
寂しさの抗体となる落椿 瀬戸優理子
空白の眼へ日の射して福達磨 浅川芳直
角ください二本ください朧の夜 斎藤よひら
理不尽に布を被せて炬燵とす 白川幹久
霜柱骨ひとつずつギア入れる 陸野良美
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