妹尾健「『晴天』と『地震』の四文字初日記」(「コスモス通信」第70号)・・

 

 「コスモス通信」第70号(発行・妹尾健)、エッセイは「フレイルについて」、「阪神タイガースの影」。論考に「宮田戊子編『新興俳句の展望』⑥ー⑤/上田都史の連作俳句論」。「妹尾健俳句作品集 二〇二四年一月集」とあるが、ひと月に100句を作っているのだ(愚生などは10年かかっても無理のようだ)。まずは、論考の中から、部分であるが引用、紹介しよう。


 先日頂戴した森澤程さんの葉書に、これからは和田悟朗先生の研究を進めながら、橋閒石の先生の研究を進めていきたいとのことであった。そういえば和田先生は橋閒石先生の門下であった。そのためか和田先生のお話では、林原先生の『俳句形式論』のはなしなども出たこともあった。和田先生は出自からいうとい旧派の系譜に連なる人であったのである。私が二号にわたって書いている上田都史もやはり旧派のしを持つ人である。上田都史の祖父は聴秋、この人は明治二三年二条家より花の本の免許を受け十一世を称したこともある。橋閒石先生は、昭和六年兵庫の俳諧師寺崎方堂の「羅月」、方堂が義仲寺無名庵一八世継承後の「正風」に加盟。主として連句と実作に傾注したとある(鈴木六林男執筆)。上田聴秋も橋先生も旧派にあって、連句の方面にも活躍された方であった。(中略)

 定型俳句陣から、新興俳句さらにその無季急進派、自由律俳句にいたるまで、その射程にいれる上田の筆力には非凡なものを感じるが、その主張の根底には世年彼のいう―ー十七音を基軸とする自由律俳句(その結果上田は戦後『海程』に参加する)の探求にあったのである。

 現在ではまことにかえりみられることのない新興俳句のうちの連作俳句について解析の労をとり、俳壇の状況について目配りし、自由律俳句の動向までくわえている点など、『新興俳句の展望』から『現代俳句の展望』はまたとない同時代の資料である。惜しむらくはこの時代の推移はあわただしく、上田都史の考察とそのさししめした方途を検討する時間はあまり残されていなかったのである。


 とあった。ともあれ、以下に愚生好みになるが、いくつかの句を挙げておこう。


  東京に行くはずがいる冬菜畑         健

  地図の端妹尾とありぬ冬ごもり

  吸入器過呼吸症はだらだらと

  人寄れば声荒立てて冬館

  夜着重ねドストエフスキーhさ読み難し

  大根を歯固めとしてまず勵む

  母失くし出さねば届く年賀状

  元日の夕べに祈る安否かな

  若き医師仕事始めに空の咳

  冬銀河許さぬことは許さぬと

  冬椿すばやく歩く妻を追う



 鈴木純一「春月として現るゝ春の月」↑

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