津久井紀代「泣くための声寒風に奪はるる」(『自句自解ベスト100 津久井紀代』より)・・


 津久井紀代『自句自解ベスト100 津久井紀代』(ふらんす堂)、巻末に「俳句をつくる上でわたしが大切にしている三つのこと」がある。その中に、 


 (前略)青邨から「まづオブザベーション」、観察せよと学んだ。一句の中には必ず「モノ」つまり真実がないといけないと学んだ。俳句を作る上で最も大切にしていることだと思う。曹人からは伝統俳句を学んだ。「や」「かな」「けり」の使用の魅力を学んだ。共に現場主義を貫かれた。(中略)

  青邨の「一徹の貌」も曹人の「許すまじ」も真面目であるだけどこか憎めない滑稽がある。青邨は九十六歳で天寿を全うした。(中略)

 曹人は「夏草」同人の自立を促した。「夏草」を平等に九つに分け、青邨の百年祭を済ませ、「夏草」を一代限りとして山口家にお返しした。その後曹人は筆を折り、誰にも居場所を知らせず潔い最期を遂げられた。「夏草」の人はみんな曹人が好きであった。尊敬した。その生きざまが我々に与えた影響は計り知れない。

  一徹に生き蓑笠や百日紅 

 の句を残した。曹人もまた一徹を貫いた人であった。(中略)

 有馬先生とは俳句を始めたその日から、いつも兄のように後ろからついて行った。(中略)私はすでに評論集『一粒の麦を地に』『有馬朗人を読み解く』全十巻を残していたことは少しの救いであった。有馬先生のことを読み解くことは私のひかりでもあった。今その灯が消えてしまった。有馬先生の努力を見て育った私は、さぼることを許されなかったことが今に続いている。

  ごろすけほう弥勒の世までまだ遠い

 この句を残されて逝ってしまわれた。

 

 とあった。集中の自句自解に挙げたい篇は多くあるが、ここでは、一篇のみをあげて、他は句のみを挙げさせていただきたい。


    大氷柱金色堂を捉へけり

 青邨は「光堂かの森にあり銀夕立」と詠んだ。朗人は「光堂より一筋の雪解水」と詠んだ。いずれも光堂を詠んだものである。掲句は大氷柱の美しさを詠んだものである。仙台には平赤絵さんがいて青邨先生も朗人先生も何度も足を運ばれた。 (『神のいたづら』)


  地球儀をまはしロシアに雪降らす        紀代

  野蒜掘るかなしき力われにあり  

  掃除夫に銀のバケツやクリスマス

  寒灯に顔よせて十二月十五日

  *(愚生注:昭和六十三年十二月十五日、山口青邨逝く。当月日は愚生の誕生日なり) 

  だれよりも小さく生まれ草の花

  あめんぼう水輪いくつ作れば死 

  大虚子も母も駄々つ子椿餅

  赤絵逝く宮城野の春一番に

  鉦叩百叩いても父還らず

  春眠の子が春眠を蹴つてをり

  まだ水の色してゐたる初櫻

  魂あるとせばこの一本の夕櫻

  東京に富士見ゆる日や種おろし


 津久井紀代(つくい・きよ) 1943年、岡山県生まれ。 



     撮影・中西ひろ美「冬を並べただけで行ってしまった」↑

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