夏礼子「地球儀は昭和のままに敗戦日」(「戛戛」第158号より)・・


 「戛戛」第158号(詭激時代社)、その各務麗至「あとがき」に、


(前略)巻頭は今年の締め括りのように「嘘をつかない目」夏礼子を置いた。

 若い頃からの信頼の目を思えば頷けるそんな題で、長く校正を依頼している夏だが、私とは一つ違いの年下で十代の頃から随筆や童話を書き始めて二十代半ばには『文學界』同人雑誌評で羨望の「ベスト5」になるのである。(中略)

 「俳句」といっても、やはりそこは「夏礼子」でしかない視線のやさしい書き方であり、それこそが「夏礼子」で、こういう風に作品を掲載させてもらえることで同人合評会のようなコミュニケーションを持たない一人冊誌の淋しさから私は救われているのである。


 とあった。そして、今号の私小説風の各務麗至「花のように森のように」の部分を少し記しておきたい。


 (前略)母は、……だが、そうだった。六十近くになってやっと自分の時間を楽しむようになっていた。

 藤村詩集とか、白秋とか、

 昔読んでいたという話を聞かされたのもその頃のことではなかったか。

 そんな母が、やがて短歌だの俳句だのと書きはじめていろいろ投稿しては一喜一憂することになる。その頃からかぞえてももう三十年が来ようとしていた。

  つづまりは吾も呆けたか花曇

  桜餅四角に座してたかぶりぬ

  しまひ湯やこのまんまると春の月

  花筏いつぽん道は風の道

  昼の月河口ふくらむかもめかな

  ふりむけば八十年後や夕桜

 広告の裏にマジックで書いて見せられた母の俳句である。

 私を呼ぶ口実のようなものであったろうか。私が言うのを待つまでもなく、

 母は一句一句その情景や思い入れを繰り返しくりかえし何度も聞かすのである。ふうーんとか、ほーおとか、母の初恋だったらしい人の名である私は何時間も聞く側で接して来た。

 俳句について、だが……、

 わが母ながらどう言えばいいのか、と、私は思うのであった。花曇の、ある自覚と先行きの淡さを冷静に風刺してみたり、正座して、自己を奮い立たせたと思うと、まんまるが月であり自分であるあという艶っぽさ。


 などとある。ともあれ、本誌中より、夏礼子の句をいくつか挙げておこう。


  咲きそろうまでのざわめき曼殊沙華     礼子

  もしかして蝶は方向音痴かも

  ああ言えばこうとhさならぬところてん

  しりとりの「そ」でお手上げの春炬燵

  目薬を差し春昼へ大あくび

  手花火のやがてこころが泣きだしぬ


  

 ★閑話休題・・夏礼子「遺影まだはにかんでいる緑雨かな」(第2回『鈴木六林男賞作品集』より)・・


 夏礼子つながりで、第2回「鈴木六林男賞」秀逸賞(鈴木六林男賞委員会)より。選考委員は、岡田耕治・岡田由季・久保純夫・曾根毅・津髙里永子・堀田季何。以下に大賞・秀逸賞より一人一句を挙げておこう。


  水底の水に呼ばるる八月よ        渡邉美保(大賞)

  春愁ひフランケンシュタインの下睫毛   山本半片( 〃)

  水仙や女の立つはそうゆふこと      花尻万博(秀逸賞)

  「暑いですね」とただそれだけの停留所  夏 礼子( 〃 )

  次々に星の生まれている寒さ      佐藤日田路( 〃 )

  複眼の兵器の泛ぶ冬銀河         龍田山門( 〃 )

  空蝉を乳首につけて裸の子        植田也風( 〃 )



       撮影・中西ひろ美「消ゆるもの時雨綿虫香り縁」↑

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