岩片仁次「國禁の俳句ありけり大昭和」(「鬣TATEGAMI」第89号より)・・


「鬣TATEGAMI」第89号(鬣の会)、特集は「高野文子の漫画を読む」と「句集『夢見る甍』中里夏彦」。他に、報告・水野真由美「講演『群馬の百人一句』林桂」/ 大橋弘典「全国学生俳句会合宿二〇二三」、俳句時評に外山一機「読みの牢獄ー石原典子の俳句をめぐってー」、文学展示会時評に水野真由美「『吉村昭と関東大震災』吉村昭記念文学館」など、いつもながら、それぞれの記事に読みごたえがある充実の誌。本ブログでは紹介しきれないが、ここでは「追悼 岩片仁次」の一部になるが、林桂「追悼・岩片仁次ー戦後俳句のアンカーマン」を挙げておこう。その結びに、


 岩片は「俳句評論」七賢人と言われたメンバーに入っていない。常に高柳の元にありながら、その周縁にいたのだと、岩片は言っていた。高柳を語る毅然とした態度と違って自己を語るときのはにかんだ笑顔が忘れられない。自分を前に出す人ではなかったが、俳人としての力量も卓越していた。次の句を愛唱する。高柳の尻取り俳句の手法で書かれているが、高柳の尻取り俳句を超えているといつも思うのである。

  朝風(あさかぜ)

  前置詞(ぜんちし)

  宿痾(しゅくあ)・暗涙(あんるい)

  十六夜薔薇(いざよいばら)           仁次


 ともあれ、同号より、以下に、幾人かの句を挙げておきたい。


  クロスワードの縞馬のしまを解く       西平信義

  飛ぶことは出来ないと裏道へ         永井一時

  北の空ゆっくり見上(クリミア)げ 春の雪  丸山 巧

  初秋や空を指さす赤ん坊          齋木ゆきこ

  騙し絵の中から不意に揚羽蝶         青木澄江

  やぶめうがひとぬれてゆくやうに       堀込 学

  

  江東の

  銀河さはさは


  澤好摩                   深代 響


  彼岸(ひがん)にあれば

  見(み)ゆる

  此岸(しがん)

  入日(いりひ)かな             中里夏彦


  通時

  藪の中                   上田 玄


  天竺(てんぢく)

  飲食(おんじき)

  (を)へて

  鬼発(おにた)ちぬ             外山一機

  

  死者なべて小さくなりぬ夏の雲        井口時男

  白無垢の男水蛭子(ひるこ)を置き忘る    後藤貴子

  海とほからむ霧ふかからむ父佇てり      片山 蓉

  マネキンとサボテン飾る理髪店        九里順子

  木に風のしづかにとまり水の秋       水野真由美

  いっぷんがいちこうねんにとけるあさ   西躰かずよし

  夏の蔵王に茂吉愛唱されており        佐藤清美

  老翁が示した秋の蚕屋かな          樽見 博



 

★閑話休題・・山水辰二「若くして重き病を負いし子の看護を続けて喜寿を迎えぬ」(井上久美子エッセイ集『SUGARITA』より)・・


 エッセイ集『SAUGARITA』(鬣の会)、井上久美子は「鬣」のエッセイ同人。本号には1ページのエッセイ「夏の朝」が掲載されている。従って『SUGARITA』は「鬣」TATEGAMI75号から89号に、毎号掲載されたエッセイを一本にまとめたもの。書名の「SUGARITA」は山形県南陽市の「須刈田」であろう。その「あとがき」の中に、


(前略)その中で、田舎暮らしをする際の家を建てていただいたのが、石毛博道さんでした。三里塚闘争の旗頭だった石毛さんが大工さんだったことをご存じでしたか?(著書に、『絵と俳句が語る三里塚』もあります。)この家の玄関の軒先に、完成した印として「1992」と、彫ってくれたのも石毛さんです。向かい側には、ログハウスがあり、山武杉の皮を家族全員で剥ぎあげて、ログハウスビルダーの松野さんに柱の刻みと組み立てをしてもらって完成しました。


 とある。そして、「歌集『すすき野』」と題したエッセイには、


 この本は、山形県東置賜郡の雪深い小さな町で暮らしてきた山水辰二(筆者の父)が喜寿を迎えた時に、障害の身体に不安を持ちながらここまで生きてこられたという喜びと周囲に対する感謝の気持ちを書き残したいとまとめたものです。

 短歌は、叔父の桃井亀蔵に刺激され、書き溜めていたものを学徒挺身隊として働かれた歌人井上宏子氏にご指導いただいたようです。

 私も父と同じ七十歳になり、本棚に眠ったままの『すすき野』を手に取り、父の辿った時代と向き合わなければと思った次第です。

  銃声を聞く瞬間に全身の焼けるがごとく倒れ伏したり

この時、父の右脚を銃弾が突き抜けました。(中略)

  「故郷の歌」を唄いし兵を思う時唄わんとして絶句す我は

 内地故郷に帰り、義足でもできる仕事を求め、苦労の果てに藁工場を立ち上げ、四人の子供を育て、一九九五年四月に永眠しました。病院のベッドで意識のない父に付き添っていた姉が「さんさ時雨」を口ずさみ、私は「故郷」を歌い始めたその時、歌詞もところどころで父の声が聞こえてきました。もっと続けようとする私に、「もういいは」と一言言い残し、息を引き取りました。


 とあった。

 井上久美子(いのうえ・くみこ)1950年生まれ。



      撮影・芽夢野うのき「捉われてしまった大学の壁の蔦」↑

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