高岡修「アリジゴク貌なき蟻ら地より湧き」(『蟻地獄』)・・
高岡修句集『蟻地獄』(ジャプラン)、全句上五は「アリジゴク」の句で、カリグラフィ,タイポグラフィの体裁。その「付記」に、
かつて私は、無限の時空の中心に一頭の犀を置いて、一冊の詩集を書いた。今回、私が、一冊の句集のため、無限の時空の中心に置いたのは蟻地獄である。(中略)一見、季重なりであるかのような作品であったとしても、本質的には異なる。私は有季でも無季でもなく、詩として超季を信条として作句しているが、あえて付記する次第である。なお、この作品は、連作でありながら、一句独立をも図っている。全ての作品に「アリジゴク」が書きこまれている主たる理由である。
とある。以下にいくつかの句を挙げておこう。
アリジゴク死の円心が飛ばす砂
アリジゴク遠まなざしがもつれ合う
アリジゴク杭打てば杭昏睡す
アリジゴク等角螺旋(アンモナイト)の吐息濃く
アリジゴク羽化の思想のうすみどり
★閑話休題・・高岡修第21詩集『微笑販売機』・・
高岡修第21詩集『微笑販売機』(ジャプラン)、その「あとがき」に、
二十冊目の詩集『一行詩』をもって詩集刊行は終わりにするつもりだった。詩集のあとがきにもそう書いた。ところが、この一ヶ月の間、どっと詩がやってきた。やってきた詩を書き上げるのが詩人の使命である。もし私が真の詩人でありたいと願うなら、そこに個人的な感情や思惑の入り込む余地はない。促されるまま、私はひたすら詩行を書きつらねた。
とあった。短い詩篇を一篇だけだが、挙げておこう。
首
サッカーの試合を見るのが好きだ
そんな僕をいぶかって
古代史にくわしい友人が
サッカーの起源を教えてくれた
八世紀頃のイングランドでは
戦争に負けた敵の将軍の首を切り
その首を蹴り合って
勝利のゲームに興じたというのだ
もし世界中の人間が
切った首を蹴る人と
蹴られる首に分類されるのだとしたら
まちがいなく僕は
蹴られる首の方である
その話を聞いた日から僕は
サッカーの試合を見るたびに
蹴られはいびつに転がる自分の首を
見てしまう
高岡修(たかおか・おさむ) 1948年、愛媛県宇和島市生まれ。
撮影・鈴木純一「日の丸を裏から透かす冬うらら」↑
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