木戸葉三「死んだのは後ろをあるくきんぽうげ」(「不虚(ふこ)」18号)・・


  個人誌「不虚(ふこ)」18号(発行・編集 森山光章)、巻頭エッセイ(もしくは、アフォリズム)は、森山光章「更なる〔終わり〕へ」、献辞は、「國に道なきに、即(すなわ)ち富み且(かつ)貴きは恥なり」。(『論語』)とある。その中のいくつかを抜粋して紹介しておこう。


     

  「新聞」の投稿者は、〔思想する人〕である。投稿者(・・・)は、〔日常を思想する人〕である。わたしも、〔日常を思想する〕。〔日常〕は彼方であり、〔意味の根拠〕である。〔日常〕こそ、思想しなければならない(・・・・・・・・・・・)。 

     *

 わたしは、〔労働〕することによって、〔統合失調症〕を治した(・・・)。〔統合失調症〕は、〔労働に滅尽(・・)しなければ、治癒しない(・・・・・)。これは、わたしの〔覚智(さとり)〕である。「日連」は、〔労働は法華経〕と述べる。口当たりのいいアドバイスをしてはならない。〔死こそ闇こそ、光である〕。〔諾(ダー)!〕。

    *

 現代の(・・・)「俳句作品」は、テクニカル(・・・・・)な〔位相〕に止まっている。それは、〔頽落〕である。「俳句」は、〔存在論的意味〕を、開示しなければならない(・・・・・・・・・・・)。〔存在論的意味〕と言う〔終わり〕を、開示しなければならない(・・・・・・・・・・・・)のだ。わたしは、〔終わり〕の闇(・)を痙攣する(・・・・)

    

 〔水は淫である〕—〔彼方〕が炸裂する(・・・・)

    *

 〔意識は、必然として(・・・・・)意識を越えていく〕。〔意識〕は、必然として(・・・・・)〔他者〕へ没していく(・・・・・)。〔霊的交通(コミュニカシオン)〕である。〔利己〕という愚かしさを砕滅し(・・・)、〔利他〕に没する(・・・)のだ。〔利他〕に没しない限り(・・・・・・)〔意味の構築〕は出来ない(・・・・)。そこには、〔捨身(し)〕だけがある。〔生きようとしてはならない〕のだ。〔死は、力動(・・)であり、光(・)である。錯誤してはならない(・・・・・・・・・)。    


 他に、エッセイに前田俊範「教育は国家百年の大計で」、「クレーム社会からあたたかなまなざしに満ちた社会に」。森山光章「佛教と介護(ケア)」。その結びに、森山光章は、


 〔介護者〕は、〔利用者〕との、ジョルジュ・バタイユの言う〔霊的交通(コミュニカシオン)〕を通して〔自己を救済〕し、〔自己を完成していく〕。再度言うが、要は「個人主義」の超克(・・)である。「個人主義」に敗北してはならない(・・・・・・・・・)


 とあった。以下に句と歌の作品を挙げておこう。


  永遠をわずかにずれてあるくなり       木戸葉三

  福童の藤の下にて茶会(かい)すれば香りはすべて花に取られて  佐藤ミヨ子



        撮影・中西ひろ美「山茶花にあらずと固き蕾かな」↑

コメント

このブログの人気の投稿

救仁郷由美子「遠逝を生きて今此処大花野」(「豈」66号より)・・

小川双々子「風や えりえり らま さばくたに 菫」(『小川双々子100句』より)・・

福田淑子「本当はみんな戦(いくさ)が好きだから握り締めてる平和の二文字」(『パルティータの宙(そら)』)・・