野ざらし延男「うりずん南風(ベー)裸身さえずるまでしぶく」(『俳句の地平を拓くー沖縄から俳句文学の自立を問う』)・・


 『俳句の地平を拓くー沖縄から俳句文学の自立を問う』(コールサック社)、その帯の惹句に、


 沖縄俳句から地球俳句へ

 俳句は「地球文学」として孵(す)でることはできるだろうか。

 沖縄はすでに、その脱皮は始まっている。


 とあった。本書解説は鈴木光影「“野ざらし“の芭蕉精神と孵(す)でる“地球俳句“」、その中に、


 (前略)本書の著者・野ざらし延男氏も、芭蕉と子規がそうであったように、俳句と、いかに生くべきかという実存的問いとが不可分である。それにしても「野ざらし(しゃれこうべ・髑髏)」とは芭蕉・子規と比べても強烈である。その深く暗い心奥に蠢くものの激しさに戦慄する。

 この名付けの自己解説は、序章の「しゃれこうべからの出発」を読めば明らかだ。高校二年、生きることに絶望し自殺寸前まで追い詰められた山城信男青年に、芭蕉の一句〈野ざらしを心に風の沁む身かな〉が、「人生覚醒の一句」として突き刺さってきた。(中略)

……芭蕉の「狂気と覚悟」をわがものとして生きたいと思った。……

……私の中の“野ざらし“は私を苦しめる。…‥

……芭蕉の中の“野ざらし“は秋風に鳴っているが、私の中の“野ざらし“は春夏秋冬鳴りやむことなない。「野ざらし」の一句は私の鞭である。芭蕉を狂気もて超えねばならぬ。


 とあり、著者「あとがき」に、


 (前略) 地球の皮を剥ぎ除染とは何ぞ

      火だるまの地球がよぎる天の河

  伝統俳句は、四季を詠むことに固定化し、言葉や表現の自由を奪い、文学の可能性の芽を摘み。多様性を求める時代に逆行している。季語俳句よ、脱皮せよ。


 とあった。以下に、主要目次と、資料編「野ざらし延男百句」より、いくつかの句を挙げておくので、興味ある方は、直接、本書に当たられたい。


  第一部 複眼的視座と俳句文学

 Ⅰ章 俳句・人生・時代—情況から内視へ

 Ⅱ章 俳句文学の自立を問う

  第二部 米軍統治下と〈復帰を問う〉

 Ⅲ章 米軍統治下と俳句

 Ⅳ章 〈復帰〉を問う

 Ⅴ章 混沌・地球・俳句―詩的想像力を問う

  第三部 批評精神が文学力を高める

 Ⅵ章 歴史の眼・俳句の眼ー『俳句時評』沖縄タイムス 一九九七年四月~二〇〇一年十二月

 Ⅶ章 ミニ時評『沖縄から問う』―『俳壇抄』全国俳誌ダイジェスト

  第四部 詩魂よ追悼

 Ⅷ章 詩魂・画魂に触れて――詩集・句集「解説」「解題」/美術展レリーフ

 Ⅸ章 追悼

 

   ネクタイが首絞め戦争(いくさ)の影動く      延男

   年月が消えるごうごうボタンの穴

   火の粉浴び我ら向日葵の黒種吐く

   教室に月光あふれ翔椅子ら

   天蛇(テインバウ)跳ね鳥化岬の初日鳴る

   初電話地球をどこへ転がすか

   青空の穴をふやして散る梯梧

   桜滅ぶさてどの闇から身を抜くか

   天涯に足をはみ出し昼寝覚め

   自決の海の火柱となり鯨とぶ


 野ざらし延男(のざらし・のぶお) 1941年、沖縄県石川市(現・うるま市)生まれ。



        芽夢野うのき「寝釈迦にでもなったつもりか烏瓜」↑

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