松崎鉄之介「一人づつ死し二体づつ橇にて運ぶ」(『松崎鉄之介ー俳句鑑賞ノート』より)・・


  太田土男『松崎鉄之介ー俳句鑑賞ノート』(私家版・百鳥叢書137)、内容は、太田土男による「松崎鉄之介の百十句」の鑑賞と「松崎鉄之介の世界ー実の人」で構成されている。その「あとがき」に、


 手もとに葉書が残されている。「林火先生のように〈年いよよ水の如くに迎ふかな〉といった境地にはとてもなれません。小生は先ばかり見ています」と書いて、

   歳の餅のあと十回にて百歳に

 の染筆が認めてあった。

 しかし、享年九十五歳、百歳には届かなかった。平成二十五年(二〇一三)に「濱」を終刊して、翌年の八月二十二日に亡くなっている。林火忌の翌日というのも先生らしく律儀だ。


  とあった。句の鑑賞の部分を二、三紹介しておこう。


   一人づつ死し二体づつ橇にて運ぶ  

                歩行者 昭和20年

 奉天で玉音を聞き、九月にはソビエトの捕虜になり、イルクーツク北方の収容所に入る。昭和二十二年「濱」七月号に掲載されている。復員して携えてきた二五〇句を林火が選んで、「帰還」三十三句として発表した。命を懸けた句である。林火はどんな思いで選んだのだろう。

 捕虜生活は辛酸を極めた。掲句、「一人」はまだ人間だが、「二体」は屍である。一切の感情を殺して事実だけを提示する。


  死ぬものは死に亞浪忌も古りにけり

              玄奘の道 昭和58年

 「石楠」入会は昭和十四年だが、十五年には出征している。しかし、十六年度の「石楠」賞を受けている。縁は深い。

 句は一見武骨で非情に見える。これが飾らない鉄之介らいしところだ。もっと亞浪には「死ぬものは死にゆく躑躅燃えてをり」があり、これを踏まえている。

 これに先立つ十年ほど前に亞浪二十二回忌を修している。この時は、大野林火も原田種茅もいた。此度は三十三回忌、先輩は八木絵馬、川島彷徨子だけだった。この事実が句の根底にある。


   二百十日過ぎぬ五千石やーい

               長江 平成9年

 上田五千石の忌日は九月二日である。享年六十三歳、急死は誰もが啞然とした。いうまでもなく「もがり笛風の又三郎やーい」を踏まえている。季節は異なるが、本歌から風を受けて二百十日に重ね、巧みな弔句になっている。五千石を呼び戻しているのである。

 俳人協会の会長という職のこともあるが、弔句は仲間だけでなく、俳壇のあれこれに及ぶ。続いて「弔辞二つ書きて夜長を長くせり」とも詠んでいる。


  とあった。以下に、句だけになるがいくつか挙げておきたい。


  偽装せる鉄帽の草皆枯れたり      鉄之介

  殺戮もて終へし青春鵙猛る

  友な死にそと書きて投函霧の中

  ただ灼けて玄奘の道つづきけり

     悼 近藤一

  一月逝く一師一生の一番弟子

  戦友会花と散らざる者ばかり

  竜天に登るを黄河追ひゆけり

  戦友の賀状一通他は死にき

  松虫草咲くに化石を見舞ひけり

  

 松崎鉄之介(まつざき・てつのすけ) 1918年12月10日~2014年8月22日、静岡県金指町(現・浜松市)生まれ。

 太田土男(おおた・つちお) 1937年、川崎生まれ。



         芽夢野うのき「熟睡のなかをしずしず金木犀」↑

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