阿部青鞋「ひとづかみして動かして稲を刈る」(「阿部青鞋研究」第二期八号~十号より)・・


 「阿部青鞋研究」第二期八号~十号(阿部青鞋研究会・妹尾健太郎)、各冊子とも手作り。各号巻頭のエッセイには、青鞋の一句にまつわるエッセイ(鑑賞)に一人、青嶋ひろの(8号)、千寿関屋(9号)、内藤加奈子(10号)。各号巻末の「父の思い出」は、青鞋三女の中川専子。そして妹尾健太郎「資料紹介・阿部青鞋の俳句論『無季俳句と私』」である。この「無季俳句と私」(「俳句公論」昭和五十一年一〇号)は、妹尾健太郎編による『俳句の魅力 阿部青鞋選集』(沖積舎)に収められておらず、橋本直が、その存在を知らせてくれたとあり、資料協力者としてしたためられている。その青鞋の「無季俳句と私」の抜粋を孫引き、順不同になるが、以下に引用しておきたい。


 「俳句は自分を表現するものである。自分が時に季に居れば季を、時に無季に居れば無季を言表するだけである。」

「有季主義というものによって季があるものではない。あるのは、唯そのいずれにも拘束されないポエジイであり(後略)」「俳人が詩人であるなら、(全てに対しても自由であるべき詩人であるなら、)ポエジイの原点に於いて、もはや有季無季の垣争いなど早急に解消すべきであろう。私は有季作者であると同時に無季作者である。」

「ポエジイが季にはたらけば有季作品を生み、無季がはたらけば無季作品を生む。要はそれだけのことである。」「季語は、それぞれの当季のもろもろの現象を想起させ、またそれなりの余情を伴うところから、いわゆる季題的効果を一応喚起することはあるが、しかしその効用性もそれ自体で詩の本格とはならない。」「つまり季はそれにまつわりつく効用的通念などを超えて、最も本質的な詩語としてのみ起用されなければならない。」

「私にとって無季俳句は、季語に対する意識的な拒否または断絶から為されるのではなく、それ故に季語を不当な用途に当てまいとする、そういう詩的行為そのものである。」

「俳句形式に特に投企される詩精神の詩的な質以外に、有季無季いずれの作品的良否を決するポイントは別に無いと、要するにこう考えている次第です。」(『ひとるたま』「随想」(第四章の末部)

「つまり、無季は時に私のポエジイの無季的事情に於いて無季であり、有季は私のポエジイの有季的事情に於いて有季であるにすぎない。」(第二章より)

「いかなる無季語もまた季語もそのまま詩語ではない。ポエジイによる詩的編成に俟ってはじめて詩語である。」(第三章より)


 とあった。ともあれ、冊子中より、いくつかの青鞋句を挙ておこう。


  梅の花匂ふや匂ふところまで         青鞋

  夏の日のわが渚めく下まぶた

  日当りを見ながら夏を惜しみけり

  うんという言葉は水の言葉かな

  おろそかにくらせと空蝉に言われ

  馬の目にたてがみとどく寒さかな

  赤ん坊ばかりあつまりいる悪夢

  うねりくる電車を見ればいやらしき

  しづかさや竹の落葉の十文字


   阿部青草鞋(あべ・せいあい) 1914年11月7日~1989年2月5日、東京市澁谷生まれ。



★閑話休題・・高澤良一「目に見えぬ雨にのうぜん昂れり」(『ずぶ六の四季』より)・・


 大竹聡『ずぶ六の四季』(本の雑誌社)、著者「締めの一杯—あとがきに代えて」によると、「この本に収めた短文は、週刊ポスト』(小学館)の『酒でも呑むか』というコラムに掲載されたものです。二〇一七年春から二〇二一年秋までの連載で、その中から抜粋し、時間の流れはそのままに再録しました」とある。愚生は、かつて本屋の店員だったころから、本の雑誌社の出す本の面白さには、ハズレはないとおもってきたので、図書館から借りてきた。愚生は、全く呑めないから、意外に呑兵衛のエッセイはかえって面白く読める。もちろん、自分の周りのあれこれを想像して読むのだが、中に「震える右手をじっと見る」には、


 私などよりレベルの上の人だと、校正紙に赤を入れられない編集者を知っている。ブルブルしちゃってダメなのだ。それがウイスキーを飲むと、ぴたりと止まる。


 そういえば、つい先年に亡くなられた、女性編集者の方で、ニコチン中毒、酒もお強い方がおられて、その方も、ニコチンが切れ、アルコールが切れると指先が震えていた。アルコールを口に湿らせ、煙草を一吸いされると、ピタリと止んでいた。また、「坪内祐三さんからの電話」では、奇しくも、本書を借りた図書館のリサイクル本(ご自由にお持ち下さい)に、坪内祐三『靖国』(新潮社)を観つけたので、ためらわずいただいて帰宅したのだった。もう一篇「夏の朝酒」には、


(前略)隣家のオレンジ色の花が、光彩を放っていた。雨上がりの朝はなんでもきれいに見えるけれど、夏の朝は格別だ。昼にはしたたかに照る太陽が少しずつ高くなる間に、雨を吸った花が映えるのだ。

   目に見えぬ雨にのうぜん昂れり

 家に帰って、花の名で季語を調べると、高澤良一氏の句に出会った。(中略)

   子燕のこぼれむばかりこぼれざる      小澤 實

 ツバメは初夏から夏にかけて二度産卵するという。(中略)私が見たのは二番手だ。巣から顔を出す小さな頭が二つ三つ。巣から落ちそうで落ちない、見たばかりの光景が言葉から蘇った。

 花と子燕を肴に朝の酒。したたかで痛快な酔い心地を味わった。


 とあった。


 大竹聡(おおたけ・さとし) 1963年、東京生まれ。



         芽夢野うのき「銀杏並木の昨日の風の涼しさよ」↑

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