筑紫磐井「歴史以前の是非を言ひあふマスク論」(「俳句新空間」第18号)・・


 「俳句新空間」第18号(発売・日本プリメックス株式会社)、特集は「コロナに生きてⅢ」、巻頭は仲寒蟬「ころも日盛俳句祭2023 シンポジウム(2023年7月28日)、テーマ『ポストコロナの俳句』」。その中の【仲寒蟬資料】の句を挙げておくと、


  自粛てふ言葉がきらひチューリップ   仲 寒蟬

  封鎖後もえやみは春の闇走る      中原道夫

  つくし摘み手洗ひも消毒もする    青木百舌鳥

  これはこれhさ不要不急のい心太    杉山久子

  ゆく春や人に会はざる訪問着      辻村麻乃

  父の日やしばらく濡れていない傘   なつはづき

  変異して戻る振り出し秋の空      中村猛虎

  芽吹きさう検温されてゐる額     ふけとしこ

  九条葱支援物資の隅に置く       堀本 吟

  僕たちのオリムピックがなかつた夏   筑紫磐井

  アクリル板だらけ金魚になつた気分   内村恭子

  この町の小春の富士を誰も見ず     岸本尚毅

  玻璃越しにくちびるを読む受難節    松下カロ


その最後の筑紫磐井【余談】に、


 本号ではこの特集と併せて、本年度蛇笏賞を受賞した小川軽舟氏の『無辺』について竹岡一郎氏に論じていただいた。依頼した時点では全く予期していなかったのだが、編集終了の時点では「コロナに生きて③」と好一対の特集になったような気がする。中でも「マスク捨て鼻の個性口の個性」を詳細に論じているのは非常に惹かれるところがあった。この2つの特集を読みくらべてうただければ、現代における俳句とは何かを知る参考となるのではなかろうか。


 とある。その竹岡一郎「無辺をめざす二つの視点」に、


(前略)ちがふ名に甘ゆる猫や夕霧忌

    バレンタインデー血のまじる生卵

    手をかざす火を睨(ね)めつけて海女の恋

    夏足袋や祇園の火事の一夜明く

 これらの句を「無辺」に見出した時、驚きがあった。こういう生々しさを秘めた句は、作者の範囲外であると思っていたからだ。だが、今は、「驚きがあった」と言うにとどめる。(中略)「季語は自分である」という作者の視点、そして季語=死の響く語という中上健次の視点、この二つからこれらの句を読み直す時、恋の句、青春の句、性愛の句の真裏にあるものが見えて来る。(中略)

夏足袋の純白を踏まえて、花街の黒く焦げた匂いを嗅ぐ。憑依とは斯くも生々しい。

(俳句が季語に依って、虚像である外界に憑依する行為であるならば、私が句評を書く行為もまた、句から立ち昇る匂いへの憑依であるのか。)


 とあった。 ともあれ、本誌「玄玄帖」より、「豈」同人諸氏の句を挙げておきたい。


  ところてんにつちもさつちもいかなくて    神谷 波

  龍天にぼろぼろ眠剤こぼしつつ        田中葉月

  指先が指先探し寒昴            なつはづき

  喝采は天に 花束は舞台に          夏木 久

  炎天の一枚の鉄熱の鉄            中嶋 進

  落し文昭和生まれに火の記憶        真矢ひろみ

  バナナもバナナの皮も見えないもぬけの殻   堀本 吟

          (もぬけ、は漢字に変換できず)

  大雨の住宅街のアマリリス          佐藤りえ

  ジギタリス「豈」も「未定」もみな甘き    筑紫磐井



       芽夢野うのき「あれから十年十月桜であらまほし」↑

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