正木ゆう子「濡れて重たき昭和の傘よ昭和の日」(『玉響(たまゆら)』)・・


  正木ゆう子第6句集『玉響(たまゆら)』(春秋社)、序も跋も「あとがき」もない、近頃では珍しいシンプルな句集である。装幀は、いつものことながら夫君の笠原正孝。ただ、扉裏には献辞がある。それには、


 玉響(たまゆら)は露。朝日に向かって見る露は透明だが、

 朝日を背にして見る露は反射光なので、虹のように色がある。 


 とあった。集名に因む句は、


  玉響のはるのつゆなり凛凛と      ゆう子


 であろう。ともあれ、以下に、愚生好みになるがいくつかの句を挙げておこう。


  おほかたは蕾よ梅のうれしさは

  ゆづりあふことのあるらむ蜷(にな)の道

  片陰の犬の狼歩きかな

  ホバリングして見す鵟(のすり)かと問へば

  雪晴やママさんダンプ臍で押す

         ママさんダンプは除雪用具 

    常宿にて月兎の図

  月に搗く餅も加へむ鏡餅

  煙茸躁か鬱かと突つつきぬ

  兵戈なき雛壇をこそひなまつり

  風花が過ぎ風花がくる猫の耳

  まさびしき人よと鶲訪ね来る

    熊本五高

  ぬばたまの黒髪町や漱石忌

    回想

  荼毘までのつめたき頬よ春の月

    三十三回忌

  兄の死ののちの嫂(あによめ)すみれ草

  はるかなれば白濁として鷹柱

    入院

  癌ぐらゐなるわよと思ふ萩すすき

    魚住陽子へ

  話したかつたミッキーマウスの実のことも

    姉洋子 出生時の脳損傷による半身不随の生涯を穏やかに閉づ

  そのやうな逝きかた春風に乗るやうな

  花菜風死に照らされて一生あり

  はるのつゆふれあふ鈴の音かとも

  足元もはるかな露もうつくしく


 正木ゆう子(まさき・ゆうこ) 1952年、熊本市生まれ。


  

★閑話休題・・黒田杏子「能面のくだけて月の港かな」(「黒田杏子さんを偲ぶ会」より)・・



 本日、9月17日(日)午後一時より、如水会館に於て、「黒田杏子さんを偲ぶ会」(藍生俳句会)が行われた。先般、件の会による偲ぶ会もあったので、愚生は二度目の偲ぶ会への出席である。



 『黒田杏子Album 撮影・黒田勝雄』(上掲写真)に挟み込まれた、黒田杏子「働く女性と俳句のすすめ」(「毎日新聞」1981年9月25日)のなかに、


 (前略)ひとりで俳句をつくることはできる。しかし、俳句は決してひとりだけで完成させることは出来ない不思議な運命をもった一行詩である。こころを俳句に変えるために、人は句座をもつ。自分のこころを句座にきて、連衆の胸に映そうとする。(中略)

 句会ほど平等の時間はない。無署名の作品が清記されて句座を回りはじめるとき、作者はもう一度、自分の投句した作品にめぐり合う。この時、はじめて作者は自分自身のこころのかたちが、他者の句の中に立ちまじって生きているさまをつぶさに、距離を置いてながめることができる。他人の中の自分の姿に邂逅(かいこう)する。自分を発見する。(中略)

 年齢も、肩書も一切を超えて句座では平等である。作品が絆(きずな)である。自分自身を知るために、自分自身を発見するために私は俳句を作っている。俳句をつくることは即、自分のこころに出合うことであり、句会で仲間の胸にくまなく映し出される自分を体験することは、なにものにもかえがたい歓びである。


 とあった。



       撮影・中西ひろ美「追善の九月興行明日初日」↑

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