髙野公一「瞑目の八月白い花の数」(『風の中へー雑談集』より)・・
本日、8月10日(木)午前11時より、外苑前の梅窓院観音堂に於て、髙野公一の告別の葬儀が行われた。喪主は妻の髙野妙子。
さて、遺書となった髙野公一著『風の中へー雑談集(ぞうだんしゅう)』(タント企画)、その「あとがき」に、
サラリーマンを卒業してから万年書生のようにあちこちに書き散らした雑文を捨てるに捨てかねて集めたものである。タイトル『風の中へ』は四十数年の会社人間から心を解き放つ努力をして、新たなるものに、そしてそれは自分にとって心地よい時間に違いないと思って、その方角に進もうとした時の気分を表している。すなわち、高原の風へ、俳句・俳諧の風の吹くところへ。副題の『雑残集』は芭蕉の高弟。宝井其角の編著になる『雑談集』(ぞうたんしゅう)に倣った」。
とある。また、「流れ解散」の部分に、
(前略)人はいつ死ぬか分からない。分からないので、いつまでもこのままで生きて行けるような感覚で日々を暮らしている。しかし、それは、近くて遠く、遠くて近い。
古稀をむかえるにあたって、私は自分の死ぬのは七十七歳と決めてみた。何の根拠があるわけではないが、平均寿命より少し早めがよさそう二年は病気で伏せるとすると、元気で好きなことが出来るのは四~五年ということになる。すると、やりたいこと、やるべきことがクリアーになり、事柄に優先順位がつけやすくなる。幸か不幸か七十七歳をすぎてもまだ元気なら、それは天からの賜りものとして別勘定とすればよい。
仮の世を流れ解散秋あかね 公一 (中略)
そして墓石には妻の発案で「邂逅(かいこう)」と刻んだ。邂逅はふと出会うこと、偶然に出会うという意味である。
考えて見れば夫婦も親子も何かの縁でふと出会ったよなものではないか。「千の風」ではないが、墓石の中には私はいなくとも、墓石を便にして、死者と生者、生者同士が改めて出会う場所になればと妻と話し合ったりする。
われ死なば父母も死ぬ梅の花 公一
とあった。髙野公一は、二年は病床に伏すとして・・、と記しておられたが、長患いをすることもなく、願い通り、いやむしろ、呆気ないほど呆気なく、天からの賜りものの時間を生きて、清里の別荘で、高原の風に吹かれて、突然に旅立たれた。思えば、髙野公一に最後にお会いしたのは、先日の「件の会」の「黒田杏子を偲ぶ会」だった。帰りに喫茶店で少し話をして、7月2日に予定されていた、現代俳句協会・評論賞の選考委員会でまたお会いしましょうと言って別れたばかりだった。紳士というに相応しい印象深い人だった。偶然だが、ちょうど愚妻の一周忌でもあった。ともあれ、本集より、いくつかの句を拾っておきたい。
素粒子になって無限に肌寒し 公一
流氷寄る幾千年も地震(ない)の国
日輪に毀れはじめる冬の蝶
落葉松の林やメメントモリ茜
春の水たたえ地球も眼球も
揚げ雲雀エーゲ海には島多し
軍艦に春の愁いのような波
いつまでも女タンゴの夜は短か
どの塔も天に触れんと夕焼ける
水の精睡蓮になり蛇になり
さくら咲く海のどこにもない色に
手術衣や秋の遍路へ発つごとし
髙野公一(たかの・こういち) 1940年~2023年、享年82。新潟県生まれ。
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