井谷泰理「杖と傘梅雨にはやめる二本足」(「里」7月号より)・・


 「里」7月号(里俳句会)、特集は「俳句って、何?/前号「里程集」を読みつくせ)。その「あとがき」に島田牙城は(本文は正字)、


 (前略)日常にこそ俳句の種は転がっている。その意味では「吟行」では本当は俳句の本道から逸れた道であるとすら、僕は思ってゐる。俳句の本道は、虚子爺さんが主婦に勧めた「台所俳句」にこそあるんだ。台所には季節が溢れてゐる。日常そのものではないか。そこで詠むめない俳人にならないでいただきたいなと思ふ。周囲一メートルにこそ、俳句はある。肝に銘じてほしい。


 と述べている。最近の牙城は、この道を、しつこいくらいに語っている。それでいいと愚生も思っている。ただ愚生の句も、それら日常から出発している。現実的な契機、そこにすべてを負っていると言ってもいいくらいだ(とはいえ、ここからは、ぼくの妄想かもしれないが、愚生の句は、それらから遠くあるように思われているフシがあるようだ、そういうレッテルが貼られているようにも思える)。大手拓次は、記憶でいうが、「象徴主義はその根を必ず現実に負っている」と言っていたように思う。

 実は、「里」の毎号の楽しみは叶裕「無頼の旅」で、今号は「無頼歌手友川カヅキ」である。愚生の知っているのは「カズキ」ではなく、「かずき」だったが。改名されたのだろう。最初に会ったのは、福島泰樹の短歌絶叫コンサート(当初は朗読だった)。ギター一本で、福島泰樹の中原中也と同じく中原中也を歌っていた。少なくとも数年間はその二人の舞台だった。

 ホントに遠い昔で、覚えの悪い愚生だが、友川かずきは、確か、西武多摩川線沿いのある駅近くに暮らしておられたのではなかろうか。そして、また、三鷹駅前の今は無き第九茶房に寄られたことがあるかもしれない。当時、友川かずきの奥様は愚生の勤めていたK書店で働いておられたように思う。その縁で、たぶん一度だけ、自宅に伺ったのだと思う。彼の弟が及位覚(のぞき・さとる)、遺稿集が出ていたはずだ。絶叫コンサートでは必ず出た名前だった。吉祥寺曼荼羅での毎月のコンサート(現在でも続いている)には、吉祥寺駅ビル中の書店に勤務していた愚生は、よく顔を出していた。福島泰樹には、愚生の句集『風の銀漢』(書肆山田)の解説を清水哲男とともに書いていただいた。実は愚生は、福島泰樹の第一回目の短歌朗読が下北沢で行われたときに行っている。結構広い会場には、歌人がほとんどだった(絶叫コンサートでは、今は歌人の方々ではなく、多くのファンがおられる)。その時のライブ盤に入っているピーピーという喝采の口笛は愚生の口笛だ。何十年前になるのだろうか。ともあれ、本誌より、いくつかの句を挙げておこう。


  濁りつつ噴水は音繰りかへす       水口佳子

  でで虫の唾液光りて翻意あり       雨宮慶子

  壁に手の擦れたやうな暑さかな      上田信治

  百歳にして啖呵きる熱帯夜        歌代美遥

  スライダーとおなじ握りをしてトマト    叶 裕

  一日を椅子に座りぬ椿の実       川嶋ぱんだ

  手土産の婦人画報や独歩の忌       黄土眠兎

  森といふより蟬といふところに来     島田牙城

  まひまひや男と男にもある格差      瀬戸正洋

  ゐるはずのなき人に向け草矢打つ     谷口智行



          芽夢野うのき「空蝉は昨日の色を隠し持つ」↑

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