村越化石「籠枕眼の見えてゐる夢ばかり」(『生きねばや/評伝 村越化石』より)・・
荒波力『生きねばや/評伝 村越化石』(工作舎)、本書の扉には、
この作品を化石の甥の故・村越鉦吾氏に捧げます。
と献辞がある。当然といえば当然なのだが、本書一冊あれば、村越化石の全貌がわかる。巻末には、詳細な「村越化石(英彦)年譜」、「参考文献」などが付されている。著者「プロローグ」の冒頭に、
もしあなたが少年の日、ある日突然、今までの平穏な生活を打ち切られて、家族と離れてたった一人名前を隠して他郷で暮らさなければならなくなったとしたら、あなたはどう生きますか?そんな生活に耐えられますか?
この作品は、そんな過酷な宿命に翻弄されても、絶望のあまり自棄自暴に陥ることなく、ひた向きに一筋の道を歩き続けて大輪の花を咲かせ、命の限り精進を続けた一人の男の生涯を追跡したものである。
その男の名前は村越化石。元ハンセン病の俳人である。
とある。また「あとがき」には、
(前略)最後に化石の妻のなみさんについて触れさせていただく、彼女は、令和元年六月二十九日に亡くなられた。享年九十九。最後は、とても静かで眠るようであったという。
私は、化石存命中の『高原』の巻末に掲載された「自治会」に関するすべての記事に目を通したが、なみさん関係の方がコンスタントに訪れていることが確認できた。その度に、関係者が寄付をしていたのである。
当時、ハンセン病になると、親戚や友人から縁を切られてしまう人が多かった。化石も幸せな人であったが、なみさんもとても幸せな人だなあ、と心から思ったものだった。(中略)
この作品で、私のハンセン病文学者の評伝三部作は終了する。人間は、どんな逆境に陥っても、必ずどこかに光が射す場所があるはずだ。必ず協力者が現れる。彼らの生涯から、そのことを学んでいただけたら、作者としてこんなに嬉しいことはありません。
とあった。ハンセン病文学者評伝三部作の著者の他の二冊は『幾世の底より 評伝・明石海人』、『知の巨人 評伝生田長江』であろう。そして、本書中に、
●『濱』の終焉
化石が長く俳句を愛した「濱」が八百十二号で終刊を迎えたのは、この(愚生注:平成二十五年)の八月のことだ。(中略)
この時、松崎主宰は、次のように挨拶した。
「このところ、村越化石君が句を出していない。私はこれまで、『濱』誌を化石の俳句の発表の場であると思って続けてきた。化石が句を発表しないということであれば、これ以上『濱』を続けていく意味がない。『濱』は本年八月号をもって終刊とする」
と、記されていた。かつて愚生は、松崎鉄之介の自宅を訪ねたことがある。面と向かって話をするのは初めてだった。夏の暑さもあってか、ステテコ姿だったように思う。その時、「化石が句を出し続ける限り、濱は続けるが、そうで無くなったら辞める」と言っていた。事務所も売って、「濱」の発行ために財産をつぎ込んできたことも話されていた。その頃、松崎鉄之介も、毎日、家の近所を散歩するだけになっているとおっしゃっていたが、それでも、日々、花々の表情も変わり、日々変化している、それだけでも句はできる、とおっしゃっていた。
化石の師の大野林火は、「直接指導するために、栗生楽泉園に三十回余も足を運んだ。ハンセン病の感染が恐れられ、またこの病気が忌み嫌われている時代であったから、誰にでも出来ることではない」「昏い海を照らす灯台の燈のように化石の進む方向を照らし続けた」(エピローグ)のである。ともあれ、本書中より、化石の句をいくつか挙げておきたい。
除夜の湯に肌触れ合へり生くるべし 化石
病みぬきし人のまなざし蝶を追ふ
病臭は口よりすらむ夏無数
新薬プロミンの恩恵に浴し数年を経る
湯豆腐に命儲けの涙かも
生家なれど訪うてはならぬ庭に石榴
生きねばや鳥とて雪を払ひ立つ
ふところに綿虫の入る淋しかろ
一夜明け銀河の冷えの石にあり
林火先生の柩の中に納めた句
これからの長夜無明の身の置き処
おん僧もわれも盲や豆飯食ふ
見えぬ身の身もて仰げる新樹かな
謝す日々の暮らしに小鳥来たりけり
寒餅や最後の癩の詩つよかれ
色鳥や心眼心耳授かりて
癩の名を神に返上年新た
山眠り火種のごとく妻が居り
風鈴や心眼夫婦ここに居り
村越化石(むらこし・かせき)1922年12月17日~2014年3月8日、享年91.
静岡県志太郡生まれ。
荒波力(あらなみ・ちから) 1951年、静岡県生まれ。
撮影・芽夢野うのき「やっと逢ってくれたのね烏瓜の花」↑
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