堀本吟「送電線雲につらなる子どもの日」(「つぐみ」No.211、2023・6月号)・・
「つぐみ」No.211(編集発行・つはこ江津)、「俳句交流」は堀本吟(豈)。俳句評論(95)に外山一機「俳句の無力さについて」。その中に、
福本啓介が上梓した『保健室登校』(文學の森)は、わずか六〇句からなる小さな句集である。(中略)
解離性健忘症
雪降り積む記憶喪失始まりて
解離性同一障害
また違ふ君現れし涼しさよ
本書のあとがきにはまた、次のようにある。
高校の教員になってから数多くの生徒たちに出会ってきたが、定時制高校の生徒たちは、ひと味もふた味も違っていた。十代半ばというのに、多くの生徒たちは、生きることに疲れ、傷付いていた。それでも前を向こうとしていた。不登校経験のある生徒はもちろん、志半ばで退学した生徒は数知れず‥‥。
この句集の句の多くは、彼ら彼女たちのやり取りの中から生まれたものだ。(中略)
夏に入る君リスカ痕隠さずに
西日中見つめてゐたりリスカ痕
雪が降る君リスカ痕また増えて
リストカットは自傷行為のひとつだが、福本はその略語としての「リスカ」をごく自然に用いている。これは「コンビニエンスストア」を「コンビニ」と略して用いるのとは異なるふるまいであろう。というのも「リスカ」は「コンビニ」ほどにはじゅうぶんに認知されていない略語ではないかと懸念されるからだ。(中略)
囀りのごとひとり言自閉の子
ASD(自閉症スペクトラム)の者には対人関係やコミュニケーションが苦手であるという特性がある。他者との会話が苦手であると同時に、周囲を気にせずにする独り言が多くなる傾向もある。(中略)
たとえばこの句が〈囀りやひとり言いう自閉の子〉と詠まれていたのであれば、「囀り」が季語として中七下五の「自閉の子」ととりあわせられていることになる。いわば、「囀り」が季語としてじゅうぶんに機能していることになる。だが、福本は「囀りのごと」とすることでその機能をあえて削いでいる。ここに、季語ではなく人間の生を詠おうとする福本の意志がうかがえる。(中略)
この句で福本が「囀り」の季語としての機能を抑え込み、むしろそれを「自閉の子」のありようを示す語として用いているのは、福本が、――いわば「俳句らしい」俳句を詠むために俳句を詠んでいるのではなく――こんなふうにして人間の生を賛美し、あるいはいたわりを示そうとして俳句を詠んでいるからではなかったか。(中略)
「十代半ばというのに」「生きることに疲れ、傷付いてい」る「多くの生徒たち」が直面しているのは、いかにも理不尽な現実である。このささやかな句集では、その理不尽な生を直接変えることなどできるはずがない。だが、だからといってそれは祈るのをやめる理由にはならない。福本は〈親ガチャにハズれたと君汗ぬぐふ〉と詠い、〈蚯蚓鳴き君毒親の毒語る〉と詠う。そのように詠うことで、寄り添うことで、他者の理不尽な生を目の前にしたとき、そしてその現実を変えられないとき、それでも俳句に何ができるのかという問いに対するひとつの答えがここにはあるように思う。
とあった。ともあれ、本誌本号よりいくつかの句を挙げておこう。
春泥や鳥は童話を落とすもの 堀本 吟
中空に湿った時間合歓の花 夏目るんり
花あやめ水はしずかにたたかっている ののいさむ
毛狐の牡丹雲が流れてきて雨に 平田 薫
テーブルのクロスもいつか緑なす 八田掘京
マカロニに穴ひとつ余命宣告に紅い薔薇 らふ亜沙弥
ひな飾りあつけらかんと配電盤 わたなべ柊
青大将 零(ゼロ)にならんと 炎えあがる 渡 七八
「ゲルニカ」の天向く女聖五月 髙橋透水
春昼のながい身の上ばなしかな つはこ江津
芽夢野うのき「小さき空戦ぎつくしてハタザオキキョウ」↑
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