齋藤愼爾「孤島夢や螢袋で今も待つ」(「コールサック」114号より)・・・

 

 「コールサック」114号(コールサック社)、特集1は「追悼 黒田杏子・齋藤愼爾」である。執筆陣は、「追悼 黒田杏子」に、坂本宮尾「一日二十句修行――連れだって広重の江戸百景を歩く」、永瀬十悟「牡丹園の夜明け」、関悦史「桜の巨木に対するように」、董振華「杏子先生との思い出」、寺井谷子「胸中紙片」。「追悼 齋藤愼爾」に、渡辺誠一郎「齋藤愼爾氏について思い出すこと――闇・暗愁の彼方へ――」、筑紫磐井「コールサック・齋藤愼爾が自らを語る」、井口時男「齋藤愼爾氏追悼――日録風に」、高澤晶子「句集『冬の智慧』に見る齋藤愼爾の死生観」、武良竜彦「哀悼―—私はいつも間に合わない」、鈴木光影「近くて遠いお二人」。黒田杏子については、他の雑誌でも、数多くの追悼記事や特集が組まれるだろうから、ここでは井口時男の齋藤愼爾を挙げておきたい。


  天上の蜜に渇くや蝶の旅      時男

 三月三十一日午後二時半から西葛西にて告別式。齋藤さんにふさわしく簡素な別れの式だった。 

  蝶の棺に砂粒ひとつ入れておく     

 蝶だって何だって、齋藤さんだってこの私だって、無神の国の単独者はみな砂漠の住人なのだ。4LDKを埋め尽くし、床を隠しベッドを隠し湯舟の縁まで迫っていたという無数の書物が、そのすべての頁のすべての活字が、増殖する砂粒でなくて何だろう。だが、単独者たる詩人は、砂粒を花びらに変える秘法を探究するのである。砂漠の商人になったランボーだってその秘法を探し続けていたのかもしれないのだ。


 愚生にとって、齋藤愼爾との出会いは、版元・深夜叢書社との吉本隆明『「反核」異論』の販売をめぐる注文部数の件で、当時、全国書店の年間売上げベストテン入りをはたしていた弘栄堂書店吉祥寺店においても、その部数確保は至上命令である。話題性もあり、ベストセラー間違いない書籍であった。ただ、仕事を別にすれば、愚生は、その後、吉本本はほとんど読んでいない。吉本隆明は確か、その本で、原発における核エネルギーは、科学によって制御できるという言い方だったからである。素人の直観にすぎないが、愚生はもともと原子爆弾であろうと、核の平和利用などというまやかしの原発も当時から全く認めていなかったから、なおさらであった。いつだったか、コロナ禍直前、同席した場で、そのことについて齋藤愼爾に質問したことがある。当然ながら、吉本隆明と濃く長い付き合いをされた齋藤愼爾に即答はなかった。それは、よく分かる。たった一度だけ数時間しかお会いしたことがなかったが、その折の吉本隆明の人がらは、魅力的で大きく優しい印象だった。人は思想だけで、それのみで付き合いが続いたりすることはないのだ。ともあれ、以下にいくつかの齋藤愼爾の句を挙げておきたい。合掌!!


  晩霜やラスコーリニコフの斧の上        愼爾

  父の忌の空蝉母の忌の螢

  梟や闇のはじめは白に似て

  旧軍港直立の父傾ぐ母

  螢火のほか少量の光り欲し

  清拭や天の川より水もらひ

  手毬つき身のうち暗くほの紅く

  現し身の白極まりし日向ぼこ



      芽夢野うのき「たぶん此処しか読まない人よ立葵」↑

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