五島高資「たまゆらに天を支へて霜柱」(「俳句大学」第8号)・・・

 

「俳句大学」第8号(俳句大学)、永田満徳「巻頭言」の中に、


(前略)「俳句大学」では、例えば、インターネットの「俳句大学ネット句会」、或いは、Facebookの「俳句大学投句欄」に於ける、講師による「一日一句鑑賞」、会員による「一日一句互選」や週ごとの「席題で一句」「テーマで一句」「動画で一句」、特別企画の「写真でい一句」などに投句し、講師として選句も担当してきた。

 

 とあった。その他に、俳句大学大賞に篠崎央子句集『火の貌』(ふらんす堂)、俳句大学大賞特別賞に川越歌澄『キリンは森へ』(俳句アトラス)などの授賞式の様子などが報じられている。ともあれ、本号よりいくつかの句を挙げておこう。


  晴天も氷柱となりて光りゐる          永田満徳

  縄跳びや夕日のあとに誰か入る         五島高資

  甲冑の口髭らちもなく冷ゆる          斎藤信義

  凩や真夜の底ひを掬うては           辻村麻乃

  純粋は痛いじゃないか水仙花          歌代美遥

  ときめきは晩年に来よ桃の花          向瀬美音

  神農の五穀王廟水車前             洪 郁芬

  木の話森の話や桐一葉              亜仁子

  風すぢを消して風すぢ麦の秋         安部真理子

  言の葉の呪力を磨く牛蛙            大津留直

  白亜紀の琥珀に眠る冬の虹           北野和良

  くちなしの花やワルツを踊らうか       桑本栄太郎

  セイタカアワダチソウススキに負けていゐる感じ 十河 智 

  蝉鳴くや津波遺構の小学校           辻井市郎

  仔犬には仔犬のいお辞儀冬ぬくし        徳重玻璃

  あの頃の私へひとつ檸檬投ぐ          中野千秋

  余白なのか本文なの芒原            西村楊子  

  旗日には非ず八月十五日            野島正則

  コンセント生かされてゐる熱帯魚        山野邉茂



★閑話休題・・阿部万里江著・輪島裕介訳『ちんどん屋の響き―音が生み出す空間と社会的つながりー』・・




 阿部万里江著・輪島裕介訳『ちんどん屋の響き―音が生み出す空間と社会的つながりー』(世界思想社)、そのエピローグの中に、


 (前略)一九九五年の阪神・淡路大震災と二〇一一年の東日本大震災の後、ちんどん屋の音は、瓦礫と仮設住宅の中で鳴り響いていた。生き残ったものの仮設住宅に引きこもりがちな被災者に訴えかけようと、ちんどん屋の音と記憶を喚起するような様々な種類の生音の楽器を手にした。

 東京の中心部、首相官邸前でちんどん太鼓の甲高い鉦(かね)の音が太鼓の轟音を突き抜けて響いている。二〇一一年の東日本大震災と福島第一原子力発電所の爆発事故、日本各地で行われた原発再稼働に反対する抗議デモだ。(中略)

 ちんどん屋、すなわち雇い主に商売を宣伝するために雇われた、派手に着飾った大道の楽士の集団の起源は一八〇〇年代半ばまで遡れる。その最盛期の一九五〇年代には、ちんどん屋はどこにでもいて、日常の音風景や、「大衆」という観念や、近所の小さな道端での活き活きした社交、といったものと深く結びついていた。(中略)現在では一九九〇年代初頭に始まる再起の途上にある。(中略)大阪の商店街や路地裏で、京都の在日コリアンが多く住む地区の夏祭りの踊りの場で、国際的に流通する「日本の音楽」のコンビネーションCDで、そして三・一一後の東京での脱原発講義集会で、といったように、今日、ちんどん屋の音楽は、さまざまな場所、歴史関係、音楽様式、商業活動、政治的志向が交差する地点で鳴り響いている。


 とある。なにより、本書は、博士論文の研究書として、アメリカで刊行されたものである。大熊ワタル(シカラムータ/クラリネット奏者)は、「本邦ではいまだかつて本格的な研究の対象とならなかったちんどん、裏返すと日本語でなぜちんどんは真面目な議論の対象にならなかったかという問いが出てくる。ともあれ、ここに史上初のちんどん研究書の邦訳が陽の目をみることになった」と記している。本書には他に、推薦の辞・林幸次郎(ちんどん通信社創始者)、解説・細川周平「響け、ちんどん世界」、訳者「あとがき」、そして、著者・阿部万里江「日本語版への謝辞」があり、エピローグの章の末尾に、次のように記されている。


 (前略)ちんどん屋の美的かつ職業的な傾倒は、私自身が民族音楽者として取り組み続けているのとそれほど違わない疑問と向き合っているのではないか、と私は気づいた。どんな歴史的な力が不安定な現在を作り出したのだろうか?人々が日々苦労しながら生活していく中で、どのような昔の出来事が人々を動かし、人々と共鳴するのだろうか?私たちはどうすれば音を通じて共存し、空間をともに活気づけることができるのだろうか?いかにも私たちはお互いを気遣い、面倒をみ合えるのか?どうすれば私たちは新しい選択肢を想像することができるのだろうか?そして、私たちは、いかにして自分たちがその一部でもある響きに対して耳をすませ、自分自身を調律していけるのだろうか?


 阿部万里江(あべ・まりえ) 1979年生まれ。

 訳者・輪島裕介(わじま・ゆうすけ) 1974年、金沢市生まれ。



     撮影・芽夢野うのき「目覚めれば白薔薇があり逢いたし」↑

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