加藤知子「縊る手を持つのはあたし姫女苑」(「We」第15号)・・・
俳句短歌誌「WE」第15号・記念号(俳句短歌We社)、巻頭エッセイは高橋修宏「〈モノ〉をめぐって――修造・六林男・十三郎」。その中に、
(前略)この一文で瀧口が指摘する「叙述が最小限に還元され、イメージは純化され、物体が突出する」という下りを読み返すたに、わたしに鈴木六林男の俳句の在る一群の作品を想い起させる。
遺品あり岩波文庫『阿部一族』 『荒天』
かなしきかな性病院の煙突(けむりだし)
いつまである機械の中のかがやく椅子
初期の著名な作品から抄出したが、いずれも無季である。六林男の無季句においては、その多くの場合、「いつ/どこで/何が/どうした」の「いつ(季)/どこで(場所)」が省略されている。そのため「何が/どうした」だけで一句を書き切るため、「何が」という対象だけが前景化し、いきおい露出するのだ。「岩波文庫『阿部一族』」であり、「性病院の煙突(けむりだし)」であり、「かがやく椅子」が、それに当る。そのことを瀧口の評文に引きつければ、「物体が突出する」と言いかえてもよいであろう。
とあった。また、他の論考・書評では、関悦史「安井浩司『天獄書』を読む/結界と日常を迷走することの主体性」、竹岡一郎「髙鸞石の鏡像を探る試み」などがあった。ともあれ、以下にいくつかの作品を紹介しておこう。
人生に無限あり鯰に追ひつけぬ 関 悦史
金木犀マスクのままの恋始む 松永みよこ
もとほれば紋白蝶を学ぶ石 加能雅臣
空の青とんぼのいない秋の来る 林よしこ
さよならの代わりに舌を出している 早舩煙雨
こまったこまった好きすぎて空蝉になれず 柏原喜久恵
しぐるるや地平に臭き生卵 斎藤秀雄
熊穴に入れと切にひたすらに 島松 岳
部員らの刎ねし布団はまた飛びぬ 下城正臣
青春の書に遭ふ古書肆敗戦忌 瀬角龍平
狼ヨ我ガ剖(サ)キシノチ其(ソ)ヲ遊ベ 竹岡一郎
からみつく神を払うて狂い凧 阪野基道
ととのった青田の上でならいいわ 竹本 仰
初心者てふ若夫婦ゐて冬句会 宮中康雄
ふところに夜叉をひそませ薬喰 森さかえ
歩くこと走らないこと蟬しぐれ 森 誠
地球は回る涼風爆風綯い交ぜに 江良 修
さざなみを胡桃のなかに見てをりぬ 小田桐妙女
柿干してあとは任せっきりにする 男波弘志
身に覚えないまま首は晒される しまもと菜浮
寒林に打たれ屍や柩千 加藤知子
幽霊に裸眼ですか?と尋ねたり頷くまでの長い沈黙 中山俊一
手首曲げやりにくそうに文字を書く、孫のひとりは利き手が左 西田和平
撮影・中西ひろ美「永日やさよならの後なにもなし」↑
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