羽村美和子「戦場の死角へ春風連れて行く」(「俳壇」5月号)・・


 「俳壇」5月号(本阿弥書店)、特別鼎談に、筑紫磐井・仁平勝・堀田季何「『俳壇無風論』をめぐって」、その中で、筑紫磐井は、「昨年の『俳壇』十二月号に『俳壇無風論』を書いたのです」とあり、


 (筑紫)(前略)特に私が考えてたことは、「俳壇無風」ということを可視化してみようということです。近代俳句が生まれてから現在までを、二十五年という単位で分けていって、その時々の風力を示そうとしたわけです。①一八九六(明治二十九)年以降。正岡子規、高濱虚子、河東碧梧桐らの登場、「ホトトギス」の隆盛。俳句史としてここを風力5としました。

②一九二一(大正十)年以降。4Sから始まり終戦までにお昭和俳句。水原秋櫻子を旗頭とする「足日」の独立、改造社「俳句研究」が支援した自由律俳句、人間探求派の登場。本当は風力5でもいいんですが、最後の戦中の五年間は俳壇が機能していませんでしたから、風力4くらいの時代じゃないかと(笑)。


 さらに、最近の25年では、⑥の「二〇二一年(令和三)年以降、現在ですね。どのような時代になるのか。この数年は新型コロナウイルスの影響もあって、無風状態なのではないか」風力0と続いているが、全体的に読むと、三人のなかでは一番若い堀田季何が、俳句の未来という意味では、見通しが鮮明という印象だ。もちろん、同時代を歩いてきた愚生としては、これまでのいわゆる戦後俳句史のおよそ半分近くは渦中にいたので、むしろ具体的に、負の部分も体験しているし、年齢も重ねたぶんだけ、自らに期待するというわけにもいかなくなってきているのは現実だろう。座談では、仁平勝「『内なる近代』ということを書いたけれども、近代史が自由詩になって七五調を捨てていったにもかかわらず、短歌や俳句がなぜ残ったのか、批評はそこを掘り下げていかなければならない」について、堀田季何はあとで表裏一体と述べてはいるが、


(堀田)私はそれに関しては歴史観が全く違いますね。私は短歌や連句も詠みますが、そうすると、変遷というものを考えます。和歌、連歌、俳諧の連歌というふうに、派生していって明治からは西洋詩との折衷型になっているのではないかと思っています。もう一つは、海外の俳句の話ですが、海外で俳句は進化したということもあるのではないか。むしろ日本国内では昔からの俳句を作り続けていて、海外に越されてしまっているという感覚があるのですけれども。(中略)

 例えば、俳文と俳画。これは海外で非常に進化しました。日本では俳句を作っていても俳文や俳画まではなかなかやる人がいませんが、海外では流行しています。俳画はモダンアートと一緒になっていますし、俳文も見直されていて、海外では別の詩形に変ってきたんですよ。(中略)私はそれを日本と別物だとは思いたくないのです。今はまだ言語的バリアと地理的バリアがありますが、ネットの普及などによって、これらの障壁が無くなり、これもフラットに、近い関係になっていくのではないでしょうか。ヨーロッパの詩人はお互いの国を行き来して、近いですね。(中略)

(仁平)俳句を問題にするとすれば、なぜ五・七・五なのかということを掘り下げていくしかないと言っているんですよ。誰も音数律を守らなくなって、誰も句会をしなくなったら、俳句という詩型は文芸のジャンルとしては消滅して、短詩一般に解消されるだろうと。こちらの方向に行ってもいいんですよ。堀田さんが言うように。

(堀田)私はそうなった場合でも、短詩とは区別されると思います。各言語にあった短さがあります。(中略)言語ごとに、認識の瞬間を表現するに合った短さがあると思うんです。五・七・五の伝統はないのですから。それは「認識の瞬間を詠む短詩」として定義出来ると思います。(中略)

(堀田)私は五・七・五の問題は、俳句の中心であるけれども、俳句の定義だとは思っていません。従来だって俳句は定義されていない。各自が主張したわけですから。俳句自体が新しい詩型だったのですから、自由です。だから自由律に走った人もいますし、ですから中心にはあるけれども‥‥。

(仁平)僕も五・七・五を守れと言っているわけではなくて、堀田さんの言いたいことも分かりますよ(笑)。高柳重信が「君らはまだ俳句に出会っていない」と言ったことがあるけれども、俳句はまだ見ぬものなんですよ。俳句とは、まさに堀田さんのいうように、各自がこれが俳句だなんだと思っていることが俳句なんでね。


 とあった。これ以上の引用紹介は、このブログでは無理なので、興味をもたれた方は、本誌本号に当たっていただきたい。筑紫磐井が俳句史を25年ごとに区切り、腑分けして、かつ風力○○に例えて、目に見せてくれたのも面白かったが、何より、表層ではなく、俳句とは何かというといころへ脱線したのは、やはり、俳句とは何かという本質的な問いを問わないかぎり、火中の栗は拾えない、ということだろう。近年では、良い座談会だった、と思う。



★閑話休題・・こしのゆみこ「春雨にいちばん近い席にいる」(青木裕幸・こしのゆみこ・三宅桃子 三人展「はじめましての春」)・・






 昨日、所用ついでと言っては憚れるが、最終日の、青木裕幸・こしのゆみこ・三宅桃子 三人展「はじめましての春」(於:雑司ヶ谷 D・ART)に出かけた。思いがけない偶然で、田中信克に会った。お互いマスクをしているし、愚生が、芳名録に記された彼の名を「タナカ・ノブカツ!!」とつぶやいたところで、後ろから「田中です」と声が掛かった。彼いうところの40年ぶり、途中俳句を書かない時期もあったというから、愚生は、次の約束の場所に移動するまで一時間近くあったので、喫茶店に入って話し込んだ。こしのゆみこの陶作品に出会うのも十年ぶりである。


    青林檎放物線の途中に手          ゆみこ

    我が家に未知の引き出し天の川

    昼寝する親を子猫が不思議そう

    目隠しの指がひろがる秋の海

    森へ森へ椅子運ばれるクリスマス 

    びしょぬれの桜でありし日も逢いぬ

    手が揺れて風をひからすさようなら   



    芽夢野うのき「ランドセルのかたちは春の青いかばさん」↑

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