仁平勝「憲法がいぢられてゐる秋の暮」(『デルボーの人』)・・

  


 仁平勝(実質第5句集)『デルボーの人』(ふらんす堂)、装幀は和兎。各章の扉にもデルボーの絵の部分が配されている。著者「あとがき」に、


 (前略)私の俳句は初心から自己流で、これといった流儀はない。でも読み返してみると、それなりに先達の作風を踏襲している。本歌取りやパロディーを好むのは、愛読した加藤郁乎の影響であり、季語の季節感にこだわらず季重なりも嫌わないのは、すなわち虚子に倣ったものだ。齢五十を越えて師事した今井杏太郎からは、「俳句は引き算でなく足し算である」というセオリーを学んだ。杏太郎はまた、なによりも五七五のリズムを大事にした。(中略)

 五七五のリズム自体は、いわば通俗である。そして俳句は、自身の通俗さから出発し、その通俗さを対象化する詩なのだと思う。(中略)思うにこれは、初心の頃に出会った畏友・攝津幸彦の俳句から、私なりに手に入れた俳句観といえる。


 とあった。集名に因む句は、


  間をあけて立つデルボーの人涼し      


 であろう。ともあれ、集中より、愚生好みに偏するがいくつかの句を挙げておこう。


  サングラス外してもとの好々爺       

  すぐ死んでしまふ夜店の金魚かな

  蠅打つは蚊を打つよりも無残なり

  箱庭に橋あり風の渡りたる

  風花やかつて日本に表裏

  水紋の拡がりやうが春の水

  竹婦人なら密接に支障なし

  ときをりは飛沫を乗せて秋の風

  しぐるるや京都といふは五条まで

  行く年に持たせてあげるものもなし

  雪の日を喜びし頃父ありき

  陽炎に空瓶がかたまつてをり

  春の夜のそろそろ膝を崩さうか

  父さんが吹くと大きなしやぼん玉

  

 仁平勝(にひら・まさる)、1949年、東京都武蔵野市生まれ。



★閑話休題・・黒田杏子「十薬剪りて挿す樺美智子の忌」(3月24日付け「東京新聞」夕刊より)・・


    重信7回忌墓参のバスの中、後ろの席に高屋窓秋の顔が見える。左・仁平勝、右・愚生。二人ともまだ髪が黒い。撮影者不明。↑


 仁平勝つながりで黒田杏子。黒田杏子の言うところによると(愚生には、記憶が抜け落ちていた)、最初に会ったのは、高柳重信7回忌の富士霊園墓参の貸し切りバスの中。黒田杏子のすぐ後ろの席に、愚生と仁平勝が一緒に坐っていて、その隣に、攝津幸彦が居たというのである。その時の黒田杏子は宗田安正と一緒に坐られていたとのことだった。

 思い起こすと、中村苑子、高屋窓秋、三橋敏雄、寺田澄史、大岡頌司、阿部鬼九男、松岡貞子、糸大八、山本紫黄、松崎豊、吉村毬子、坂戸淳夫、高橋龍、太田紫苑など、みな鬼籍に入られている。今、健在なのは、澤好摩、福田葉子、夏石番矢、池田澄子、桑原三郎、川名大あたりであろうか。

 因みに、上掲切り抜き記事の写真「東京新聞」夕刊(2023年3月24日)の記事、「師 黒田杏子を悼む」は夏井いつき。その結びに、


 (前略)縁側に平和な風が吹いて来た 内山澄子(八〇)

 誰もが希求するのは、三度三度のご飯が当たり前にいただける平穏な生活が続くこと。縁側に平和な風が吹き続けること。黒田杏子は俳句を通してそれを訴え続けた。「次は、貴方たちがやりなさい」と先生の声が耳元に蘇(よみがえ)る。


 とあった。合掌。黒田杏子は、3月13日逝去、享年84。



      撮影・芽夢野うのき「彼岸まで届かぬこゑを花の下」↑

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