鶴山裕司「子規庵訪はば手枕で見よ糸瓜棚」(『正岡子規論ー日本文学の原像』)・・


 

  鶴山裕司著『日本近代文学の言語像Ⅰ 正岡子規論ー日本文学の原像』(金魚屋プレス日本版・税込2000円)、帯の惹句に、


  文学をジャンル別にでなく綜合的に捉え、なぜ575なのか、季語が必要なのかを完全解明して閉塞した現代文学に風穴を開ける画期的日本文学原理論!/俳句・短歌・小説の原理を完全解明


 とある。本書の第一部は「正岡子規論」で、その各章は、序論に「子規文学の射程パースペクティブ」「Ⅱ子規小伝」「Ⅲ俳句革新―俳句の原理」「Ⅳ短歌革新―短歌の原理」「Ⅴ散文革新―写生文と私小説」とあります。第二部は「子規派作家論」とあって、「Ⅰ高濱虚子論―有季定型は正しい」「Ⅱ河東碧梧桐論―新傾向俳句から自由律俳句へ」「Ⅲ伊藤佐千夫論―写生短歌から自我意識短歌へ」「Ⅳ長塚節論―生粋の写生作家」「Ⅴ夏目漱石論―世界を遠くから眺めるということ」となっている。その批評軸についてはシンプルに、


 子規写生俳句は世界から可能な限り自我意識を縮退させて世界内存在(人間・動植物・無機物)をランダムに取り合わせ、それにより日本文化が内包する循環=調和的世界観を表現する方法である。


と述べ、また、河東碧梧桐については、


  自由律俳句に即せばそれは定型や季語はあってもなくてもよいという曖昧な形式ではない。五七五に季語は必要ない、それらは使わないという明確な型である。俳句はどこまで行っても形式文学であり、“型“がなければ始まらない。俳人にとってはどんな型を使うのかが決定的思想表現になる。しかしこの型が碧梧桐にはない。碧梧桐俳句は何度か大きく変化するが一定の形式に収斂しなかった。


 という。そして、最終章ともいえる附録「俳句文学の原理ー正岡子規から安井浩司まで」になるのだが、鶴山裕司にとっては、この附録こそが、彼の結論として重要であったのではないかと思わせるものだ。


 安井の方法が画期的だったのは重信が明確に原理的に対立させた“俳句“と“俳人の自我意識“を統合できることにある。それは「(従来の)俳句に対して完璧な虚構化(虚構の完了)が図られた俳句」であり従来的な俳句とは似て非なるものになる。秋櫻子以降の、俳句に俳人の自我意識表現を穏当モデレートにスリップさせあくまで俳句らしい俳句を書こうとし続けた俳人たちから見ればもはや俳句ではないかもしれない。しかしそれは俳句史上初めて俳人が「新しい表現論(もしくは表現史)を持ったことを意味する」「もちろん俳句である限り『一句集一作品』を企画した安井俳句も解体され不動の俳句主体である俳句に飲み込まれてゆくだろう。しかし、その多くが五七五で季語もある俳句でありながら安井俳句には強いオリジナリティがある。


 と述べている。ともあれ、本書全体を、愚生がうまく紹介できるとも思えないので、興味ある方は、直接、本書に当たられたい。ともあれ、同時に刊行された他の書(上掲写真)、一冊まるごとの長編詩『聖遠耳』(金魚屋プレス日本版・税込1500円)と抒情詩51編を収める詩集『おこりんぼうの王様』(金魚屋プレス日本版・税込1900円)を書名のみになるが挙げておきたい。


 鶴山裕司(つるやま・ゆうじ) 1961年、富山県富山市生れ。



  撮影・中西ひろ美「如月のギッタン去年を向いている」↑

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