宮崎大地「寒林に太陽おぼれやすきかな」(『宮崎大地全句集』)・・


 外山一機編 『宮崎大地全句集』(鬣の会・風の花冠文庫/税込1500円)、巻末の外山一機「たった一人の大地でー宮崎大地論ー」は先に「鬣TATEGAMI」第84号(2022年8月刊)に発表されたものの再掲載。その中に、


 (前略)宮崎大地(本名博幸、別号星輝)は昭和四〇年代初めに登場し、四〇年代の終わりとともに俳句を去った。その作品を最後に確認できるのは昭和五〇年二月号の「俳句研究」誌上である。活動期間は長く見積もっても一〇年に満たないほどだろう。わずか二三歳での終焉だった。(中略)

 俳誌「歯車」に初めてその名が現れたのは昭和四三年一〇月のことだ。昭和二六年に生まれた宮崎は当時「宮崎星輝」を名乗り、大阪府南河内郡に住む浪速高校の二年生だった。(中略)

 そして昭和四七年二月、宮崎はいよいよ自らの名を星輝から大地へと変更する。アンソロジー『歯車-創刊から一五〇号まで』において、昭和四七年二月から四九年一一月までの選を担当した前田弘は、自らの担当範囲について「宮崎大地が歯車集に登場して、歯車を去るまでの期間に相当している」と述べる。これは「編集委員会の謀議」だったというが、その編集員は鈴木石夫、林桂、渡辺和弘、佐藤弘明、前田弘、田口武の六名である。このうち、林、佐藤、田口はいずれも自らを「大地惑星」と称していた。(中略)

 ここで指摘しておかなければならないのは、多作を特徴とする宮崎にとっては自選が重要な表現行為であったということである。たとえば前田弘に贈呈した手書き句集『木の子』の発行日は昭和四八年三月となっているが、『木の子』収録句のなかにはその後「歯車」や「俳句研究」に新作として発表された句が多い。収録された三三一句のうち、実に二八六句までもがその後に「歯車」などで発表されているのである。ちなみに最も発表時期の遅いものは〈人の眼を抜けて旅ゆく蝶ひとつ〉などの一七句で、これは昭和四八年一一月の「歯車」にようやく発表されている。


とあった。また、本書「あとがき」には、


 本書は全句集とは銘打っていますが、学習雑誌に投句していた頃の最初期の作品は収集が困難であること、またその時期の作品をあえて収録することの是非については検討の余地があると考え、未収録としております。今後の収集の進捗によっては何らかの形で陽の目を見ることがあるかもしれません。

 いずれにせよ、この全句集から、新たな宮崎大地論が生まれることを期待します。


 とあった。ちなみに、本句集の書評を、特別寄稿として、宮崎大地の一歳下である藤原龍一郎が、最近の「山河」380号に「『宮崎大地全句集』について」と題して評している。ともあれ、全句集より、いくつかの句を挙げておこう。


  雪は地に地にきらめきの日の光り       大地

  未来より少年泳ぎ来たる朝

  終日を雪ふり雪に似し疲れ

  太陽はひとつ春愁限りなき

  心臓にチリリ鳴く蟲はなし飼ひ

  噴水のてつぺんなれば乾く魚

  なはとびの少女おびただしき少女

  石があり石がありつつ崩壊す

  蛇肥るふるさと暗い穴ばかり

  からからと二月沖ゆく死者の群

  太陽におぼれて虹のかわきかな

  結界の肉をかぎつつ青む蛇

  戴冠の我が名をきざむ大地かな

  春愁のをんなに少し花匂ふ

  亡き人の授業のノート雪明かり        星輝

  買い殺す犬(日ごと)日がきれいになった

  逃げてまだ逃げたきものの ある枯野

  僕ひとりゐて夕焼を使ひ切る


 宮崎大地(みやざき・だいち)1951年7月11日生まれ。以後不明。

 


          芽夢野うのき「天国で我待つ人や椿に雪」↑

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