遠山陽子「かもめ来よわが九十の宴なる」(「弦」第45号)・・

  

「弦」第45号(弦楽社)、遠山陽子の「あとがき」に、「今号の俳句は、殆どが題詠である。特に折句、割句が面白かった。折句とは、題の三文字を五七五の頭に付けて詠むもの。割句とは、題の三文字を二つに分けて、一句の頭と尾に付けて詠むもので、何れも雑排の類」とあった。その折句,割句が、


  桜の国に狂ひはじめし羅針盤 (折句)

  椿赤く黒く落ち継ぐ師の墓域 ( 〃)

  水喧嘩見事に捌きずいと去る (〃 )

  電話鳴り続ける家や春の月  (割句)

  魔弾の射手は花嫁を撃つ花の昼( 〃)

  対話のごと撫でては冬瓜の丸み( 〃)


 という。本誌でもっとも読ませたのは、妹尾健太郎「一心一途なり併走の友いつしか/三橋敏雄と阿部青鞋」。その中に、


 私はこの両俳人とお会いする幸運に恵まれた。青鞋とは二度、最晩年に東村山の教会(自宅)で。その折に「青鞋」の号の由来をお尋ねし、漢詩の一節から取った旨とその大意として「登山の途次に休息をとった旅人が、真新しい鞋に履き替えてふたたび頂を目指す」との説明をいただいた。敏雄とは青鞋選集に収めた対談の折とその前後に都合三度、小田原での酒席にもお招きいただいた。兎に角お話上手で、とりわけ俳句弾圧事件下において青鞋宅「尺春庵」に集った頃のことはじつに愉快にお話下さった。


 この中の一度、三橋敏雄宅から遠くない、小田原での会(たしか夫人・孝子さんの妹さんのお店)には、愚生も一緒だった。渋谷の鬼ババと尊称された多賀芳子もいたはずである。ただ、忘れること甚だしい愚生は、楽しかった思いはあるが、話の内容は全く覚えていない。


 (前略)ところで、敏雄と青鞋の俳句に身体肉体を表現したものが多いことには誰しも気づくところであろう。

   晩春の肉は舌よりはじまるか/敏雄

   砂ほれば肉の如くにぬれて居り/青鞋


   はつなつのひとさしゆびをもちゐんか/敏雄

   おやゆびとひとさしゆびでつまむ涙/青鞋

 敏雄句の肉体は血脈を匂わせエロティシズム濃厚に描かれている。青鞋のそれは抒情はあってもさばさばしている。

   撫でて在る目のたま久し大旦/敏雄

   尿尽きてまた湧く日日や梅の花/敏雄

   手の腹はまだよく知らぬところかな/青鞋

   左手に右手が突如かぶりつく/青鞋

 敏雄の肉体の句には各々相応しい季語が斡旋されるケースが多く、青鞋のそれは無季句が多い。とりわけ青鞋の手指の句群は独特の景観を示す秀吟無季句の一峰を成すものといえよう。(中略)

 『ひとるたま』所収随想6・「雪は雪としてふる。雨は雨としてふる。雪でもあり雨でもあるのは、別に霙という。俳句は俳句としてふれ。詩は詩としてふれ。」

 平成元年二月五日、阿部青鞋逝去。(中略)

 (愚生注・敏雄は)壮年から初老、いつしか青鞋との距離は大きくなっていた。他ジャンルとの異同など鬩ぎ合いはしなやかにスルーしたように映る。俳句というジャンルをおおらかに広く捉えた上でそのど真ん中に堂々とあり続けた。

  来しわれに去るわれ語る残花かな/敏雄

  遠き昭和の兵隊用の青年ぞ/敏雄

  山に金太郎野に金次郎予は昼寝/敏雄

 平成十三年十二月一日、三橋敏雄逝去


と記されていた。ともあれ、「二〇二二年」の遠山句より、いくつかを挙げておこう。


  大量の雲を育てて鰊群来      陽子

  暮春なる墓地の出口を探しをり

  次の一手は抽斗にあり花の昼

  磯巾着千代に八千代に締るなり

  肉の中に折れし骨あり痛き夏

  三橋忌常温の酒好まれし

  時雨るるや怖ろしきはわが後ろ姿

    「卒寿の宴」東京湾クルーズにて

  冬の航落日にああ間に合はぬ



★閑話休題・・大井恒行「浄不浄凍てを逃れず黒き鶴」(「俳句」2月号より)・・




 「俳句」2月号(角川文化振興財団)、愚生は、作品12句「無題抄」と追悼エッセイに「松林尚志ー静謐にして熱く」を寄稿した。備忘のために、写真のみだが、アップしておこう。


  夢中にも汝死に戦ぐ石蕗の花      恒行

  死ぬ人の寒中の文 達者かと

  冬帝の天にまします兄ら朋

  春の陽の彼魂(ひこん)よ風をつかまえろ

  春の空 球根の根ね さようなら  



        芽夢野うのき「円形劇場沈む冬日をとりそこね」↑

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