大井恒行「尽忠の映画の海に逝かしめき」(「貸本マンガ史研究」より)・・

 

「貸本マンガ史研究」第2期08号・通巻30号(シナプス)、愚生は、まったくの門外漢なれど、「追悼 ワイズ出版 岡田博さん」に寄稿。他にも「追悼 水島新司さん」「追悼 ちだ・きよしさん」とある。興味深かったのは「貸本店ゴム印コレクションⅠ」と常盤茂「柳瀬正夢 表裏一体の正夢/そいの死と墓のこと」であった。愚生に岡田追悼文を依頼された三宅政吉は「梶井純『トキワ荘の時代』を読むⅠ」を執筆しておられる。石川淳志「岡田博さんとの出逢い」には、


 岡田さんと初めて会ったのは『ゲンセンカン主人』の紀伊国屋ホールでの完成試写会後、打ち上げの席ではなかったか。岡田さんは当該作品の出資に関わっていた。わたくしは「つげ義春研究会」のメンバーとして参加していた。(中略)

 毎年一月一日、岡田さんはワイズ出版社に一人でいることを知っている。残った仕事を進めていたり年賀状の返事を書いていたりするそうだ。そうして夕方、映画を一本見て元日を終えるらしい。(中略)

 元日を社屋で過ごすことに関係して、岡田さんから美食を開陳されたり国内外を問わず旅行を楽しんだ、という云う話を聞いたことがない。禁欲的なのではなく映画に携わること、出版を続けることの無上の喜び以外に何があろうか、そんな態度なのだと思う。非常に多くの本を世に送り出し、映画も多数作り上げ世に問うた。生き切ったと思える。


 とあり、また、高野慎三「ダンディズムとロマンティシズム」には、


 岡田さんに最初にお会いしたのは、八〇年代の後半である。五反田の「イマジカ」で石井隆監督の初号試写のときである。(中略)

 石井監督に招待のお礼を述べたあと、駅前の喫茶店に寄り、あらためて岡田さんに「初めまして」と挨拶した。すると、「初めてじゃないですよ」と言われたのである。

 岡田さんの説明によれば、京都の立命館大学を卒業してから、数年後に吉祥寺の駅ビルの中にある新刊書店の弘栄堂書店に勤めていたという。そのころ出版した『つげ義春選集』(北冬書房)を手に私は注文取りに弘栄堂書店を何度も訪ねた。店長は別の人だったが、刊行のたびに二〇冊の注文を受けた。店長が留守のときもあった。そのときの応対が岡田さんだったという。(中略)

  そこから急速に岡田さんとの関係が密になっていった。ワイズ出版の出版物はまだ多くはなかった。岡田さんと川端さんに編集の「戦力になって欲しい」と頼まれた。やがて、石井隆マンガ作品、加藤泰映画、つげ義春作品、と協力できる企画に参加することになる。

『つげ義春マンガ術』の企画も岡田さんだった。「つげ義春全作を語る」という大掛かりな内容であった。岡田さんは私にすべてを託した。つげさんの承諾を得て、インタビューを進めた。週に二回、わたしの住まいに来てもらった。つげ宅から自転車で二〇分ほどだ。インタビューは十数回に及んだ。一回が四時間として、合計五〇時間である。岡田さんの決断によって成立したようなものである。本は上下の二分冊となった。総ページ七百ほどだ。これでもインタビューすべてを収録したわけではない。(中略)

 その後も、岡田さんとは亡くなる直前まで、〈助けられたり、助けたり〉の交流がつづいた。映画「ゲンセンカン主人」の制作を岡田さんが手がけたときは、石井輝男監督、原作者のつげ義春、主演の佐野史郎さんらと楽しいひとときを持ったし、「無頼平野」のときも、撮影現場で原作者のつげ忠男さんと充実した時間を共有した。そうした数々の思い出を書き出したらきりがないけれど、岡田さんの希望や期待にどれだけ応えられたかと思うこともしばしばであった。


 とあった。愚生のよく知っているオカダは、オカダの吉祥寺弘栄堂書店時代とワイズ出版のごく初期である。そのことは本誌に書いた通りである。弘栄堂書店を退職し、その後の彼の念願だった映画界への進出の足掛かりを創出した化粧品通販会社「ボアール」。愚生はオカダの死後の今も、「ボアール」の深海鮫100%オイルの化粧品「スコラゲン」を使い続けている。この化粧品一本で、愚生の膚も髪も、すべては足りる優れものである。そして、オカダの京都立命館大映画部以来の友人だったM氏が俳句を作り、そのM氏が「門」(鳥居真里子主宰)同人であったことは、その俳縁によって、世間は狭いとなぁと思ったのだった。



★閑話休題・・「女は競ってこそ華、負けて堕ちれば泥」(文庫版『惹句術』より)・・


 ワイズ出版つながりで、最近刊行された、関根忠郎・山田宏一・山根貞男による文庫版『惹句術 映画のこころ』(ワイズ出版)。その文庫版の関根忠郎「あとがき」に、


  惹句と書いて何と読む?

  じゃっくと読む

  そのこころは?

  世の映画ファンの「気持」を引き寄せてジャックする(乗っ取る)宣伝文句。


  僕はこうした惹句制作に長く従事してきました。大体一九六〇年から九〇年代中期までの約三〇年間、映画の惹句を書いてきましたが、丁度、東映やくざ映画路線華やかなりし頃、高名な映画評論家の山田宏一さん、山根貞男さんが、僕の仕事に興味を持って下さって、伝統ある映画雑誌「キネマ旬報」誌上で連載がスタート。(中略)そしてこの座談会を総まとめした書籍が生まれて世に出たのでした。それが辞書のように分厚い映画書籍「惹句術 映画のこころ」になったのです。


 とあった。以下に、ごくわずかだが、惹句を紹介しておこう。


  カラスが啄(ついば)む/仁義の死骸(むくろ)

  ’78 トラック野郎は活火山!/にっぽん列島/男の意地と汗ほこり。

  我につくも/敵につくも/心して決めい!

  男よ、女よ、はぐれるな。

  優作/お前と会うのが楽しみだ/ガッデム、/今度は何をやらかすか!?


  土佐高知、修羅の恋、今宵も熱く・・・・

  競って華、負けて泥、

  陽暉楼、ここは色香匂い立つおんなの館。

 


        芽夢野うのき「切羽詰まって寒椿の蘂のぞく」↑

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