尾崎紅葉「二十世紀なり列国に御慶申す也」(『尾崎紅葉の百句』)・・


  高山れおな『尾崎紅葉の百句』(ふらんす堂)、副題に「もう一つの明治俳句」とある。巻末の「紅葉が俳句でめざしたもの」に中に、


 紅葉の本名は尾崎徳太郎。慶応三年(一八六七)十二月十六日、江戸は芝中門前町に生まれた。父は角彫(つのぼり)の名工で、幇間“赤羽織の谷斎(こくさい)“としても知られた花街の名物男だった。紅葉と子規が同齢であることは本書冒頭で述べたが、他にも夏目漱石、幸田露伴、斎藤緑雨が同じ年に生まれている。(中略)

 紅葉が子規の存在をいつから意識するようになったか詳らかにしないが、「獺祭書屋俳話」の連載は見逃したとしても、翌年に出た単行本を目にした可能性はあるだろう。子規が紅葉を半ば妬み、半ば軽蔑していたとして、紅葉の側はどうだったか。紅葉が子規を妬むことは考えにくい。社会的名声も収入も紅葉の方がずっと上なのだから。しかし、ムカツクことなら大いにあり得た。こと俳句に関して子規が端倪すべからざる相手であることは歴然としており、悪いことには(?)紅葉もまた子規に劣らず、俳句が大好きだったからである。


 そして、本書の結びには、


 以前、「俳句」誌の文人俳句特集(二〇二〇年六月号)で紅葉について書いた時、先ほど挙げた〈星食ひに〉の句を引きながら、紅葉の俳句の核心を一語で表すなら「きほひ」がそれだと述べた。〈言語遊戯的なものを含めた言葉の「きほひ」が、線の太い奇想的なイメージと相乗した時、最も紅葉らしい魅力を発揮する〉ー今もこの考えに変化はないものの、他方、さらに調べるべき点、なお考究するべきポイントが次々に出てきている。それほど遠くない将来、今回とはまた別な形で、紅葉について書くことができればと思っている。


と述べている。本書中、一句のみだが鑑賞文を挙げておこう。


    星食ひに揚(あが)るきほひや夕雲雀   明治二十九年

                        (一八九六)

 〈きほひ〉は漢字交じりに書けば「競(きほ)ひ」である。激しい勢い、気勢ということ。星が輝き始めた夕空へ雲雀が飛び立ったさまを、思い切った比喩で捉えた。村山古郷は掲句を含む数句を挙げて、〈擬人法のための擬人法〉を弄するものとして批判する。(中略)こうした批判自体が今やずいぶん時代がかって感じられる。一方、夏石番矢は掲句を〈大胆な想像を注入〉した作として賞賛する。当方が共感するのは番矢の方だ。なお、明治二十八年以前の句に、〈夕雲雀隠れしあとや星の数〉があり、これもまた面白い。


 ともあれ、以下に、句のみになるがいくつか挙げておきたい。


   死なば秋露のひぬ間ぞ面白き       

   狼の人啖(くら)ひし野も若葉かな

   春寒や日長けて美女の漱(クチソゝ)

   行雁(ゆくかり)の思ひ切たる高さかな

   日高きに垂れたり蚊帳の黄(きば)めるを

   南天の実のゆんらりゆらり鳥の起(た)

   星既(すで)に秋の眼(まなこ)を開きけり

   江戸川や浮木に涼むはだか虫

   芸なしの余寒を裸踊かな

   上臈(じやうらふ)や乞食や我や花の山

   夏痩せもせずに繭煮る女哉

   秋の水剣(つるぎ)沈めて暮れにけり


 高山れおな(たかやま・れおな) 1968年、茨城県生まれ。



    撮影・中西ひろ美「うるわしき嘘つき始め小正月」↑

コメント

このブログの人気の投稿

救仁郷由美子「遠逝を生きて今此処大花野」(「豈」66号より)・・

小川双々子「風や えりえり らま さばくたに 菫」(『小川双々子100句』より)・・

福田淑子「本当はみんな戦(いくさ)が好きだから握り締めてる平和の二文字」(『パルティータの宙(そら)』)・・