後水尾院「波風を嶋のほかまでおさめてや世を思ふ春もきぬらむ」(『修学院夜話』より)・・
木村草弥詩集『修学院夜話』(澪標)、その「あとがき」に、
『修学院幻視』を出してから丸二年経った。(中略)
題名については続編なので、Ⅱとか「続」とか「余話」とか色々考えたが「夜話」にした。
文人であった後水尾院が仲間を集めて談論風発される夜話、という趣向である。
半分は後水尾院とは関係ないが、ページ数の関係とお許しいただきたい。
短歌誌である「未来山脈」に載せたものは、私としては散文の「短詩」として書いたものなので敢えて「詩集」としての扱いにしたので、そのように読んでもらいたい。
とある。その「短詩」は、各編一題のもとに、各10行でおさめられた定型の詩と言ってもいいだろう(ソネットが12行であるように)。その短詩の中から一編を挙げておこう。
シラ
気象、天候、大気、世界そして宇宙をエスキモーは「シラ」と呼ぶ
それは天候を司さどる精霊の名でもあった
狩猟民にとって天候は成功のための必要条件である
彼らは「シラ」を自然界の精霊の一つとして崇拝した
「シラ」は人間が恐れる自然現象によって語りかけてくる
太陽の光や静かな海、無邪気に戯れる子供を通じても語りかける
子供たちは女性のような静かで優しい声を聞くのだ
ただ彼らは何かの危険が迫り来ることも聞くのだ
誰も「シラ」を見たことはない。その所在は謎である
たった今、人間界にいたかと思えば無窮の彼方へ消え去る
あと一例、「八条宮智仁親王添削歌」と題する中の、ほんの一部分を引用紹介しておきたい。
後水尾院が若い頃に、父君の弟つまり叔父の八条宮智仁親王から「古今伝授」を受け入れられたことが記録に残っている。(中略)
先が院の元歌。次が添削済みの完成した、「御集」に載る御歌である。カッコ内は御集の歌番号。
■ふるほどは庭にかすみし春雨をはるる軒端の雫にぞしる
降るとなく庭に霞める春雨も軒端をつたふ雫にぞ知る(一一七四)
■もらさじなそれにつけてもつらからば中々ふかき恨もぞそふ
もらさじなそれにつけてもつらからば深からん中の恨もぞそふ(一二一七)
こうして見てくると、八条宮の添削が、極めて的確であるのが判る。しかも添削に当たっては、なるべく後水尾院の元歌の語句を残して巧く直してある。
八条宮の添削のうち、記録に残っているのは六十首ほどである。
因みに、八条宮こそ今の桂離宮ーーその頃は「桂山荘」と称された建物と庭園を造られた人であり、後水尾院の父君・後陽成帝が譲位を望まれた、その人である。
幕府は後水尾院に譲位を迫る。そんな因縁のまつわるお二人であった。
院が幕府の紫衣事件などに憤慨して娘の明正天皇に、幕府の承認もなく突然「譲位」された同じ年ーー寛永六年(一六二九)八条宮智仁親王没。このとき後水尾院三十四歳である。
と記されている。 因みに、紫衣事件(しえじけん)とは、「江戸時代初期における、江戸幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝幕間の対立事件。江戸時代初期における朝幕関係上、最大の不和確執とされる」「紫衣とは、紫色の法衣や袈裟をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜った。僧・尼の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもあった」。
木村草弥(きむら・くさや) 1930年、京都府生まれ。
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