高岡修「氷瀑(ひばく)せよ氷瀑せよとて野スミレが」(『蝶瞰図』)・・
高岡修第9句集『蝶瞰図』(ジャプラン)、巻末のアフォリズムに、
終末時計に刻まれてゆくどんな季節を僕らは生きているのか。おそらく僕らがいま経験している季節は、これまでも誰もが知りえなかった季節である。(中略)
どんな飛行機雲だって、その中核に塵埃がなければ、遥かな空の高みに結晶することはできない。(中略)
死は豊穣であるという地平において、詩も豊穣である。生の本質は、むしろ死の方から照らされる。言葉の世界もまた豊穣な死によって満ちみつる。(中略)
詩人が詩を創るのではない。書いた詩によって詩人が創られるのだ。そのように、詩語が詩を創るのではない。書かれた詩によって詩語が創られる。(中略)
物象は意味を語らない。その存在を示すだけである。俳句もまた意味を語ってはいけない。固有の言語空間を示すだけである。(中略)
言葉を極限まで削るということは、伝達性を拒絶することだ。ゆえに俳句は、伝達性を拒絶しながら伝達するという大いなる矛盾を体現している。完成された俳句を容易に日常の意味へと還元してはならない理由がそこにある。(中略)
今、ここで思う。今、ここで書く。そこが深夜の一室であろうと、そこがどれほど無機質な場所であろうと、今、ここで書く。それが現代文学の姿である。俳句においてもその現在性が重要なのだ。(中略)
俳句にあって、私たちはむしろ、一句の内在律をこそ、優先させなければならない。おそらく俳句作品における至福とは、内在律と外在律との一致である。(中略)
俳句は文学である。文学の世界とは」精神の底なし沼である。溺死せざるまま誰ひとりとして渡ることはできない。(中略)
そうして君は、遥かなる未来の記憶をこそ俳句で刻印しなければならない。
とあった。ともあれ、愚生好みに偏するが、集中よりいくつかの句を挙げておきたい。
野の涯てにけぶるは蝶の溶鉱炉 修
死の永久(とわ)よ汝(な)が卵管を我は降(くだ)り
陽炎のヴァギナに舌を挿し入れる
鳥籠で飼う春愁もあり鳴ける
手花火が手の淋しさを照らし出す
初ぼたる飛べば真闇が嗅ぎにくる
戦争に引火してゆく秋スミレ
それぞれの非在明るき秋の葬
動悸して我が影動悸せるを見き
しんかんと日が死姦する冬の蜂
水の炎(ほ)となりて白鳥水を出る
高岡修(たかおか・おさむ) 1948年、愛媛県宇和島市生まれ。
★閑話休題・・山口和子「銀杏散るデモ先頭を吾子ゆけり」(『山口和子俳句集』)・・
山口さやか編『山口和子俳句集』(私家版)、愚生が、二十歳のころ、京都時代の友人の一人であった長男・山口蒼玉(本名・潤)の実娘・山口さやかが母(享年91)の七回忌に俳句集(書をされていたので、その自筆短冊など集め、写真に収められたもの)を作ってくれたのでと、恵送にあずかった。半世紀もあっていないが、偶然に堀本吟から電話をいただいたので、その山口潤のことを少し聞いた。それによると、かつてのご乱行はおさまり、今では、母と同じ、書の道に進み、すっかり人並みの道を歩んでおられるともことであった。吟の夫君・北村虻曵の方がよくお付き合いをされているらしい。ともあれ、その句集より、いくつかの句を紹介しておきたい。
病む兄の手紙代筆寒ざくら 和子
三伏や口いびつなる百済土器
ジャスミンの香るあしたに女児誕生
薫風や寄進の瓦積み重ね
新しき細筆使ふ業平忌
げんげ摘みたんぽぽ摘んで見舞けり
蕨取りいくつか越えし忘れ水
萩の花母を偲びのい一書かな
山と山つなぎて風の鯉のぼり
芽夢野うのき「青空の声聞いているのか鳥よ鳥たち」↑
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