高山れおな「雅歌に栞(しを)る星に願ひの糸ならば」(「現代短歌新聞」159号・6月号より)・・

 

「現代短歌新聞」159号・6月号(現代短歌社)の一面は、インタビュー「高山れおな氏に聞く/和歌の季題=季語が短歌ではなく、俳句に継承されている捻じれのなかで」。リードには、「堀河百首ほか王朝和歌に題を求め、題詠三百句に挑んだ第五句集『百題稽古』が話題の高山れおな氏にお聞きした」とある。記事の最後部分には、


――平成以降の俳句の現代史の中で、この句集の試みはどう位置づけられるでしょうか。

 私自身まさに昭和から平成に代わる頃に俳句を始めたのですが、その時期はざっくりと言えば人間探求派的なものが退潮してゆくタイミングに当たっていました。入れ替わるようにして存在感を大きく回復したのが虚子だったのですが、私自身は人間探求派も虚子も、それ以外のあれこれも、要するに眼前にある主流派的な俳句はことごとく好きになれなかったですね。それで、一応は高柳重信系の前衛派にカウントされるグループに籍を置いて俳句を作り始めるのですが、それらともついに一体化できなかったことは、私が一貫して有季定型で作っていることで明らかでしょう。

 それでもなんとか俳句を作り続けるために、俳句自体をカスタマイズする――それが私の三十何年だったと思います。(中略)そうした個人的な志向に根があるので、自分の仕事は本質的に孤立したものです。(中略)

――〈短歌(うた)は愚痴俳句は馬鹿や躑躅燃ゆ〉の句がありますが、題詠三百句はことさら馬鹿げて見えますね。

 そうですか?(苦笑)まあ、本来和歌のものだった季題=季語が、短歌ではなく俳句に継承されているという捻じれは、俳句側も短歌側ももう少し意識してもいいかもしれません。堀河百首なんて持ち出されても、歌人だってほとんどの人は読んでないでしょう。まして俳人たちには迷惑なだけ。ともあれ季題=季語の伝統のまんなかにブスッと刺さったものであるということはまちがいないので、俳人たちは迷惑でもその正統性を否定できないという状態を強いられることになります。「俳句は馬鹿」とは、そうした関係性そのものの謂いなのかもしれません。


 とあった。俳句の総合誌に、こうしたインタビューがなされていないのは…高山れおなの言う孤立のたまものかも知れない。あとひとつ、本紙5面に、佐藤文香が「現代俳句採集」と題しての連載㉒「本流の上流の遊び」がある。ここにも高山れおな『百題稽古』を挙げて、

 

 (前略)ハイソなエンタメだ。完全な縛りのもとで書くというマゾの快楽を観覧できるとも言える。


 と記している。



★閑話休題・・城貴代美「人妻と呼ばれし頃の夏椿」(第29回「西山俳壇俳句大会」選者詠より)・・


月刊 ひかり」7月号・第785号(西山浄土宗総本山光明寺護持会)に、「第29回西山(せいざん)俳壇俳句大会開催」(選者・城貴代美)の記事中に、


 五月三十日、緑あふれる本山にて、西山俳壇俳句大会が開催されました。(中略)そして御法主猊下をお導師に西山俳壇俳句大会参加者各家先祖代々のご回向をし、皆さまがお焼香をされ、御法主猊下のご垂示をいただきました。


とあった。ともあれ、大会入選句と西山俳壇の特選句のみになるが、以下に挙げておこう。


  (法主賞)紫雲かと紛うばかりの桐咲けり   奥村文男

  (総長賞)敬虔といふやすらぎや弥陀涼し   米澤 百

  (選者賞)サンダルや足に合わせば子供用   竹田実末

       紅の刃秘めたる青もみじ      村上建夫

       窓越しのバラの香りとローズティー 前川令衣

       新緑は動き出す色遊行かな     髙野照弘

       喜寿越えて老いの青春バラの花   西井松柏

       庭若葉二階よりテネシーワルツ   門脇重子 



  撮影・芽夢野うのき「逢える日はのうぜんかずらの蔦になる」↑

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