小川楓子「みつ豆を運びきよろきよろ眩しさう」(「ノイ」JUN.2025 VOL,2より)・・
「Noi ノイ」JUN.2025 Vol.2(俳句雑誌 noi)、特集は「座談会 口語俳句の育て方」、出席者は小川楓子、神野紗希、野口る理、後藤麻衣子。その扉に「今回は、口語を積極的に採用して書いている作家として小川楓子さんをお迎えし、口語俳句をいくつか持ち寄りつつ、『口語』という大きなテーマについて語り合いまさした」とあった。その中から、少し抜粋したい。興味のある方は、是非、本誌に直接当たられたい。
(前略)せぐろ鷗の糞ひとすじは宙に止まれ 大石雄介
(小川楓子が選ぶ口語俳句)(中略)
紗希:詩って「どうやって書き終えるのか」が難しい。俳句は五七五の定型を意識すれば終わりの目安があるけれど、定型から自由になればなるほど「書き終え方」そのものが課題として立ち上がってくりんですよね。口語で書いている人は「どうやって書き終わるか」っていう意識が強いんじゃないかな、と思っていて。
る理:切れ字がないからね。
紗希:そう。切れ字もなく定型もスイングして自由になっていくとき、「どこが書き終わりなのか?」という答えが、作家ごとの個性にもなってくる気がするんです。(中略)
楓子:今、る理さんから「人格」って言葉が出たけど、大石雄介さんはまさに「俳句=人格」と考えている人です。大石さんの句は、念を送っているというか、〈止まれ〉という命令形のアクセントが切れに近いような効果を持っていて、こういうのは口語俳句において結構効いてくるんじゃないかな。少しシュールな景を書いていりんだけど、決して幻想を書こうとしおているのではなく、実体がある。(中略)
〈せぐろ〉も意識的に仮名にひらいているはずで、そこに日常感が出てくる。そもそも普通の鷗だから〈せぐろ鷗〉って言う必要はないのに。(中略)
楓子:「今ちょっと俳句作りたくないな、調子悪いな」ってときは、文語定型になっちゃう。(笑〉。文語定型の句ができたのを見て「今私体調悪っぽいな」って気づく。
麻衣子:なんと。文語が体調のバロメーターになってる……。
る理:逆に言えば、口語にはエネルギーがいるってことですね? (中略)
る理:あの、楓子さんが俳句を作るときは、一息で作る感じですか?
楓子:息というか、乗ってくる感じというか。韻律のグローヴ感を、自分の中に乗せていく……。俳句って有機的なものだと思っていて、「身体とは、袋の中に液体が入っていて、その中に液体が入っていて、その中に骨とか心臓が浮かんでいるようんなもの」とう身体観を持つ「野口体操」というのがあるんですが、その野口体操の考え方と、私が俳句に感じているものはとても似ていて、いつでも、たぷんと変形したり、伸びたりもできる。それはまた戻ることもできるし、有機的で流動的なんです。
紗希:わかる。自分がコイントロールするというよりも、言葉自体がひとつの生き物のい命みたいになるといいよね。言いたいことを句にしているわけじゃなく、俳句自体がそこで生きている状態にするために手を貸す、みたいな。その手の貸し方とか、どんな生き物になるのを見たいか?というところに個性が出てくるのかもしれない。
る理:俳句の定型って「形が定まっているものと定義されがちですが、私は「形を定めてゆく」ものだとも思っていて、もちろん定まっている形に乗る楽しさもあるけれど、定めていく楽しさもある。どちらの楽しさも行き来していきたい。(中略)
紗希:俳句がもっと、私たちが感じていることの世界そのままであってもいい。言葉を変換しなくてもこの世界は十分このままで面白いということが、口語の基本的な思想の核にあると思います。
今日は、現実に存在する言葉そのいものとしての口語、そこに存在しているものを引き込むという口語俳句の大いなる可能性を感じました。
とあった。ともあれ、本誌本号より、アトランダムになるが、いくつかの句を挙げておこう。
あら五月じやがいもの芽のやらしいかんじ 小川楓子
助けて何も見えない聞こえない寒い 神野紗希
小瑠璃飛ぶ選ばなかつた人生に 野口る理
「雨が降っています」二度言うラジオ沖縄忌 後藤麻衣子
手を動かしていれば春が来た水仙 谷 佳紀
ももハム二枚朝刊も来て敬老わたくし 成田輝子
てざわりがあじさいをばらばらに知る 福田若之
天文学っておおむね静かふきのとう 宮崎斗士
先生が死んでおられた冬麗 嫌(や)だ 池田澄子
めがさめてわたしになるまではすもも 斎藤よひら
隊列を組んで吹雪のボルシェビキ 鈴木麗門
ひかみなり揺すってほどく傘の襞 武智しのぶ
あたたかや二球に一球芯で打ち 友定洸太
★閑話休題・・玉置妙憂トークイベント「いのちを紡ぐ」&末森英機ライブ(於:かけこみ亭)・・
撮影・中西ひろ美「どきどきと虻蜂を待つ梅雨晴間」↑
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