江田浩司「わが生の幻としてこの地なる艸影(さうえい)にあれ智恵子と隆」(『艸影集)・・
江田浩司第11歌集『艸影集』(現代短歌社)、その帯には、
岡井さん、山中さん、たくさんの思想をありがとうございました。/ぼくは今、ちがふ場所に来てしまつたやうです。/韻律の風がやはらかく吹き過ぎた後に、揺れてゐる野の艸。/土のうへにあるあるかなきかのその艸の影。/短歌(うた)とは畢竟、そのやうなものではないか――。
亡き歌人たちへの思慕を深め、/魂を沈めんとする第十一歌集。
わが生の幻としてこの地なる艸影(さうえい)にあれ智恵子と隆
とある。著者「あとがき」には、
(前略)『艸影集』は、「くさのひかりしゅう」という意味です。歌の一首一首を、草の光に譬え、その光の集まる歌集を心に描きながら、『艸影集』と名づけました。光あるところに、必ず影があることも、歌集の由来に含まれています。また、二〇二三年九月に、未来短歌会の選者に就任し、選歌欄を「草影集」と名づけたことも記念しています。(中略)
平仮名を多く使っていますが、それについては、従来の私の短観観が反映しています。古歌や近、現代短歌の読み直しを通して、今書くべき私の歌を志向した結果です。また、「短歌往来」(ながらみ書房)に、現在執筆している「短詩型韻律攷」の問題意識と表裏をなすものでもあります。実作と理論を併せ志向しつつ、私の短歌のすすむべき姿を更新できればとおもっております。(中略)それは、短歌の詩形と、言葉の韻律の聲が、自然に拓かれてゆく歌を探究する道程(みちのり)です。私にとっての新しい歌は、その先にしかないと思っております。
とあった。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するがいくつかの歌を挙げておきたい。
時のこちらで、あかるい鞠(マリ)が咲く
きずついたあなたのうたを書きとめる鞠(マリ)の咲けるうつつに
ほんたうは苦しみだけがうつくしい神からとほくいなびく艸影
「詩は、愛より疲れる。」といふ詞書、わが師の口は氷へんをおふ
やうしきのさしだす腕(うで)をうちはらひうつつをうたへとのたまはりけり
ひややかなはるのあしたにくちずさみ雑詩(ざつし)にゆける風をまた恋ふ
やはらかき土ふむときにこゑひとつひかりのなかに立つをまもりぬ
あゆみきて神(かみ)ふかくゐるわが人のうたのことばにわたるいのちか
罪のなき人死にゆくをいくたびか見てさむき身か雨のあぢさゐ
みづからのおこす風かもたかむらにひとすぢの径(みち)つづくをみたり
ふゆくさのなかにうごけるふゆの霧おほよそ捌(は)けのみちにそひたる
ことの葉をいづくのゆめにみるものか、ぼーどれりあんゐんりつに尽(つ)く
小池光のうたをよみつつおもふかなうたにくるしむことのさまざま
真言(しんごん)のおくへあゆめと象(ざう)うたふ大手拓次(おほてたくじ)の写影(しやえい)かなしも
わが夢(いめ)にいのちにひかる小径(こみち)ありうたにつづけるみちとおもはむ
さびしさをかたちになしてゆく雲にゆふひあたればしさまじき痕(こん)
さやばしるひかりのなかにうごくものあふれてよぎる艸の影から
艸のいきうたのしらべにひらきたりことばのひびき詩形にいこひ
いにしへのことばに虹のはしかかりわがうた屑(くづ)にしらべみちゆけ
江田浩司(えだ・こうじ) 1959年、岡山生まれ。
撮影・中西ひろ美「なにごとも無く水無月の南口」↑
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