伊藤裕作「帰るべき山河も断ちていまは暮暮(くれぐれ)逆髪(さかがみ)の少女と解けぬなぞなぞなどを」(『心境短歌 水、厳かに』)・・
伊藤裕作『心境短歌(わたくしたんか) 水(みず)、厳(おごそ)かに』(人間社)、解説に福島泰樹「凡愚の旗」と勝又浩「寺山修司と伊藤裕作」。前者の福島泰樹は、
伊藤裕作の短歌的出立は、一九六九年四月早稲田短歌会入会に始まる。前年、寺山修司のアジテーション(「家出のすすめ」)に煽られ三重県安濃津から上京。新聞販売店に住み込み配達の仕事を抱えながら、早稲田大学教育学部に通学していた。(中略)
一九六九年十一月、「戦無派宣言」を発した伊藤は以後、同人誌「反措定」(短歌会の後輩三枝昂之の卒業を待って創刊した)を徹底的に批判しつつも……、だがしかし七〇年反安保闘争をわが戦闘的文学者集団「反措定」に結集して戦う。伊藤の作「僕には〈世界〉は眩しすぎる!」(「早稲田短歌」25号 一九七〇年秋刊)を引く。
蟻ほどの〈愛〉或るならば少年よ行け!塵、無知、恥辱の地上遠くまで
飛行機雲の描くキャンパス 青空に鴉、火葬場、土塊(つちくれ)ひとつ
真っ赤な夕焼け彼方に真っ黒いじりっじりっと迫(せ)りあがり〈終章(ハッピーエンド)〉
以後、伊藤の短歌の揺れは凄まじく現在へ進行してゆく。(中略)
伊藤裕作が次ぎに私の前に現れるのは、一九七二年冬。当時、私は愛鷹山麓の村落柳沢(沼津市)の小庵で墓守人の日々を過ごしていた。(中略)
この直後、連合赤軍浅間山荘事件があり、ほどなく伊藤は、山田徹と共に(ブリュッケ)を創刊する。
敷島のしじまに泥泥(マグマ)睡りおりマグマ女神(マリア)の交接(まぐわい)の季(とき)(中略)
思想史を生きる風俗レポーターとして、また凡愚の歌人ととしてだ。十九歳の君を松下彩子と比べたのは、叡智と凡愚を浮びあがらせるためであった。凡愚こそは常民の智恵、それ故に君は持続を可能としたのだ。みろ、あの時代を君と共に在った者たちすべてが創作の場から遠ざかっていってしまったではbないか。
力石徹のような風貌、戦いを自らの拠(よりどころ)とし、七〇年代への架橋を必死に工作しようした無名戦の闘士山田徹よ、そして淑やかな感性をもって時代の慈雨を降らせ松下彩子よ。伊藤裕作はこれからも、したたかにしなやかにちからつよく凡愚の道を闊歩してゆくこちおであろう。
と記していた。そして著者伊藤裕作の跋の結びには、
(前略)2020年、古希の年。いや、もう年齢はどうだっていい。私の寿命が尽きるまで、こうやって生きて行こう。そう決意し詠んだのが次の2首である。
底を見て亀を演じて地べた這い寄せ場巡りて この世の果てへ
はぐれ者 這いつくばって生きてゆくドブネズミ色の化粧施し
むろん、だからもう、この歌集は私が当初考えていたような“短歌を詠い始めて50年の私自身を回顧するための著作“でも、寺山さんが記したような“生きているうちに立てる自分の墓“でもなくなってしまった。願わくば、老いてなお、青くさく人間らしくいきていこういう人が、この歌集を読むことによって人間らし記憶を取り戻し、思い出してなんらかの行動を起こす起爆剤になれば、一年有余を掛けて、この歌集をまとめた意味があるというものである。
とあった。ともあれ、本集より、いくつかの歌を挙げておきたい。
闇・花火みどり山脈(やまなみ)疾走(はし)りぬけ 論至りえず佇つはぐれ橋
裏切りは表切りより凄い奴逆巻き菊座へ至る
港町寿町で龍吠える「一切衆生平等往生」
老いて我けだものの血が少しづつ薄れていって仏(ぶつ)に近づく
「家を出ろ」寺山修司の呼びかけに1968(いちきゅうろくはち)われ東京へ
九と書き「一時苦(いちじく)」と読む娼婦観 われの心眼赫(かく)と見開く
(衆生は如来を胎児としてやどしている)
いまわれは津波に呑まれ流される“如来の胎児“妄想ならず
原子の灯信じて生きたわれらいまその灯を消して見る阿弥陀の光(ひ)
壊憲し原発残し去ってゆく「友よ」僕らの一生って何?
列島を暗雲覆うオームの死刑 何故?障碍者ジェノサイドの日
満つる国州(くに)作れど満つることのない弱き民あり それ国家なり
人、国も自分ファースト皆が皆 やがて必ず地球は爆(は)ぜる
伊藤裕作(いとう・ゆうさく) 1950年、三重県津市生まれ。
撮影・芽夢野うのき「さっきまで逢っていたはず巴草」↑
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