河本緑石「こんな美しい星空で児を火葬にする」(『中井金三と砂丘社の仲間たち/〈不思議の町倉吉〉100年の旅から未来へ』より)・・
波田野頌二郎著『中井金三と砂丘社の仲間たち/〈不思議の町倉吉〉100年の旅から未来へ〉』(ふらここ叢書)、その帯には、
焼芋を食べながら、画家中井金三を囲んで若者らは考えた。「芸術が生活だ、美術、文学なんでもやろう」。ここから砂丘社は出発する。前田寛治、河本緑石らが生まれ、モダンの風が吹く〈不思議の町倉吉〉は紡(つむ)がれていく。…そして100年の時がたち、今、砂丘社の水脈は県立美術館〈アートの足袋〉へ灌(そそ)ぐ。
町には伝え継ぐべき物語がある。
とある。「まえがき」の前の扉には、
〈アート〉をするよろこびをすべての子供たちへ
の献辞があり、「まえがき」には、
二〇二四年春、中井金三(なかいきんぞう)先生が生誕して一四〇年、中井先生を中心として発足した芸術文化団体砂丘社(さきゅうしゃ)が誕生して一〇五年をむかえました。
私は河本緑石(かわもとりょくせき)研究会が発足したときから、会員の高田彬臣(たかたよしとみ)さんより「中井金三と砂丘社」について本を書くようずっと促されてきました。(中略)
中井先生は明治三〇年一四歳の時に上京し、西洋画に目覚め東京美術学校へすすみます。優秀な成績を修めながらも、頼る兄の商売が倒産し卒業と同時に郷里へ帰ります。倉吉中学校の美術教師をしながら、若い人たちと砂丘社という芸術文化団体をつくり、町の芸術、文化、教育に計り知れない影響をもたらすのです。砂丘社運動は時間を超えて倉吉、中部、鳥取県の人たちへ波紋ととなって伝播(でんぱ)していきました。
そして,「あとがき&サイド・ストーリー」の中に、
(前略)時期を図ったかのように研究会の山崎英俊さんが、一冊の本「倉吉中学創立二五周年記念号」を「これをどうぞ」と渡してくれました。そこに父幸治が「河本緑石君の死を悼む」と題して書いていました。この文章を読んだとき、私は言葉を失い涙があふれてこらえることができませんでした。そこには「君(緑石)が最後の著作として『人間放哉傳』を書いたごとく、だれか『人間緑石』の記録を書く者はいないかと思っている」と誌してあったのです。私は父に七五年たって、「あなたはなぜ今、なぜこの時にこのことを私に伝えに来たのですか」と問いかけ、不思議な世にいる思いがしてならなっかたのです。このたびの『中井金三と砂丘社』についても、書いているうちに段々とこの不思議な世に入り込んで行く思いに捉われました。
とあった。興味を持たれた諸兄姉は、「令和6年度鳥取県文化芸術活動支援補助金助成事業」の本書を、是非、手に取られたい。ここでは、本書に収められた第2章「砂丘社の仲間たち」の中から、自由律俳人・河本緑石への追悼句と緑石の句をいくつか孫引きしておきたい。
大山に登ろう君が見えない登ってゆく霧 入澤楓村
波のうねりを影がおよぐよ 種田山頭火
夕日染みて働く手よ夕日ちらばる黒土(くろぼく)に 河本緑石
麦かつぎ入るる家内(いえうち)すでに暗くて 〃
我等土踏む太陽寒き血に落つる 〃
幼児抱きて太陽に暖まらうとする 〃
子の手を曳(ひ)いて出る燕もでる 〃
もっと抱いてやればよかった子を逝(い)かせている 〃
狂人の家に狂人は居らず茶碗が白し 〃
百姓子を失ひなげきつつ土打つ 〃
荒海の屋根屋根 〃
日傘さして小舟できた 〃
魂ふらふら行きあたるところがない 〃
狂つた時計ばかり背負はされてゐる 〃
海はるかなり砂丘のふらここ 〃
雪路(ゆきみち)の温かい手をとる 〃
風がおとすもの拾うてゐる 〃
波田野頌二郎(はたの・しょうじろう) 1942年、鳥取県倉吉市生まれ。
コメント
コメントを投稿