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仁平勝「さればここに盗人の徘徊梅の花」(『「花盗人」評釈』より)・・

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 仁平勝著「花盗人」評釈』(私家版)、その「はじめに」に、  (前略 )私に一歳下の弟がいて、当時二人でときどき両吟の歌仙(三十六句続ける連句)を巻いていた。 (中略) だから私の俳句は、いうならば連句が出発点である。それと、現代詩文庫(思潮社)の『加藤郁乎詩集』を愛読していたので、郁乎の俳句からかなり影響を受けている。   この本を書くことになったきっかけは、あるとき抽斗の奥から、弟の『花盗人』評が出てきたことだ。句集を送ったことに対する返礼だが、じつに四百字詰め原稿用紙四十二枚に及ぶものだ。そして私のほうも、返信として自句自解のようなものを書いていて、こちらも原稿用紙で四十九枚ある(そのコピーが一緒に見つかった)。 (中略)   ところで、弟の『花盗人』評がなかなか面白い。最初は、それを丸ごと載せようとも思ったが、なにせ私信なので、第三者が読んでも分からないところが多い。それで私の文章中に、随時その引用を挿入することにした。だからこの「評釈」は、私と弟の共著といってもいい。 (中略)   弟和夫は、二〇〇二年に満五十二歳で他界した。   とあり、「あとがき」には、永田耕衣主宰「琴座」の「二句勘弁」という巻頭のエッセイがあり、そこに『花盗人』評が掲載され、全文の引用がある。それに関して、  (前略) 加藤郁乎の句と並べられたのは赤面したが、いまあらためて読み返すと、そこでは未知の若手の句を持ち上げながら、その未熟さを指導しようとしているのが分かる。「少々怪奇趣味が濃厚」といわれればその通りで、ここまできちんと批評されたことが何より嬉しい。  とあった。ホントは書全体を引用したいくらいだが、それでは、本ブログの手に余る。一カ所のみ引用して、あとはいくつかの句だけになるが、挙げておきたい。       風花の天しんしんの百叩き  「雪」の一句目は「花吹雪」(「雪」という名の花)、そしって八句目は「風花」(「花」という名の雪)と最初から決めていた。最後の句は、弟の評をもって締めたい。      見事な挙句。花盗人百句が登りつめた最高峰、まさに虹の絶巓。ただただ感服する他ない。/それにしても「百」といふ文字は、何故かくまで不思議な魔力を持つてゐるのか。それが魔力である以上、とうてい説明できるものではないが、この句に出逢つて、また怖ろしいほどの感にうたれてゐる。いさ...

妹尾健「冬耕の畝のいつしか曲がり出す」(「コスモス通信」第69号)・・

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   「コスモス通信」第69号(発行・妹尾健)、巻頭は「森澤程著『和田悟朗の百句―未完の少年』を読む」、また、論考には「宮田戊子編『新興俳句の展望』について ⑥ー④ 上田都史の連作俳句論」。招待作品は、竹味千賀子「十二月」の20句。     虚空さまよふ枯蔦のあそび蔓      千賀子  「森澤程著『和田悟朗の百句』を読む」には、  あれは花森こま氏のやっていた『逸』の句会のことだった。この句会には和田悟朗先生は毎回出席されていたと思う。その時は福田基氏が出席されていた。福田氏が和田先生にむかって、 「和田さん、闇ってあるのですか?」 と質問されたのである。一瞬私はなんのことか分からず、和田先生の方を見た。先生は「それはねえ…‥」と話し始めた。私のような素養のないものにとってはほとんど了解不能の答え方であった。しばらく福田氏は質問されたが、それも私にとっては理解するのが困難なものであった。今となっては、それは科学と俳句とのみごとな対照となっていたとの記憶がある。意表をついたような福田氏の質問に即応していきながら、そこから自然界への科学者の目を語り、これまで詩歌として眺められていた花鳥諷詠的な自然観とは異なった自然の認識を和田先生は語られたように思う。和田悟朗を俳人として感じ始めた頃のことである。  近頃、そんな生前の和田先生のことをよく思い出す。時間というものは冷酷なもので、和田先生のこともよく知らない人が多いように思われる。そんな時、森澤程氏が『和田悟朗の百句-未完の少年』を送ってくれた。  とあった。ともあれ、以下に、句をもう少し紹介しておこう。    一陽来復踵のしまりよき日なり     千賀子    倖せは固まつてある冬菫         健    鷹渡る一の鳥居の上越えて        〃   南天の実を咲かせ不在の主かな      〃    我を容れ全山すでに汗をかく      悟朗     永劫の入口にあり山さくら       〃 ★・・閑話休題・・訃報あり。上田玄「地にふれてたちまち重き絮となる」(『鮟鱇口碑』)死去・・  上田玄が昨年12月30日に死去した。享年77。第一句集『鮟鱇口碑(私家版49句)を手土産に、同人誌「未定」に参加した。40年ほど前のことになろうか。その後、句作を一時中断するも、同人誌「鬣 TATEGAMI」を復帰の舞台に...

タゴール「正しくないものが勢力を伸ばしても真実に変わることはない」(『本の虫/二人抄』より)・・

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  劉永昇・古田一晴『本の虫 二人抄』 (ゆいぽおと)、劉永昇「はじめに」に、  この本は、朝日新聞名古屋本社版に約10年にわたって連載したコラムを単行本にまとめたものである。タイトルが示すように連載の趣旨は「本にまつわる四方山話」というゆるやかなものだったが、執筆者に起用されたのはそれぞれ異なる立場から「本」を生業 (なりわい) とする三人の「虫」どもであった。古田一晴さんは名古屋の新刊書店の店長。選書の見事な棚づくりは「古田棚」と呼ばれ、全国的に有名なカリスマ書店員。共著者のわたしは、名古屋の小出版社の編集長。もう一人は、やはり名古屋で古書店をいとなむ鈴木創さん(本書のコラムは未収録)。  とあり、古田一晴「おわりに」には、   本書の刊行作業の真っ最中に、私の勤める書店の閉店が決まった。 (中略) その作業に慣れたころから、ちくさ正文館書店の遺品整理的モードの作業が並行して始まった。  とあった。愚生は、かつて俳句総合雑誌「俳句空間」の販売営業で古田一晴に会い、ちくさ正文館書店に置いてもらえることになり、毎号、お世話になったのだ。つまり、その頃から(30年前?)、書店業界のなかでは、名古屋だったら古田一晴に頼めと言われていた人である。だから、本書のなかでは、愚生にとても縁の深かったおふたりについてのエッセイがある。一人は、「 珠玉の詩集、世に出し50年」 の書肆山田の鈴木一民であり、もう一人は、「 柴田さんが亡くなった 」の岩波ブックセンターの柴田信である(奥様は俳句をなさっていた)。愚生も弘栄堂書店に勤務していたので、古田一晴のエッセイには納得のいくものばかりだ。なかでも、書肆山田で言えば、初期に刊行された瀧口修造『地球創造説』、村松和明『村山槐多全作品集』(求龍堂)、宮田毬栄『わすれられた詩人の伝記/父・大木惇夫の軌跡』(中央公論新社)、「平出隆さんの本と展覧会」(『私のティーアガルテン行』・紀伊国屋書店)、そして、何と言っても、地元名古屋といえば、美術評論家でもあり、俳人でもあった馬場駿吉句集『耳海岸』など、あげれば切りがない。馬場駿吉の句を少しあげておきたい。    常ならぬ世に大いなる春の月            駿吉    薔薇園の薔薇の獄 (ひとや) となして老ゆ   手に提げて紫陽花はわが鬱の脳   風神の足蹴にしたる牡丹かな   耳海岸ここ番...

岡田マサノ「裸木にもたれて空のひろさかな」(『花のやうに』)・・

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  各務麗至編・岡田マサノ句集『花のやうに』(詭激時代社)、その「あとがき」の中に、大正七年十一月四日生まれ。もう俳句はできないと言ったが、最新作「夕桜」を巻頭に置いた。この春の句作ノートから選んだ。   俳句が六十歳を過ぎた頃の母の、川柳に、短歌にと習い始めた後の行き着いたひとつの生き甲斐らしく見えた。 (中略)  十七年の秋祭まで、母はまだ書いたり消したりしていた。どんどん小さく丸く無垢になってゆく。いつもにこにこありがとありがと繰り返していた。その後の入院も、どうしようもない生死の、何か揺れるためらいのうちの出来事と思えてくる。いざ入院すると完治して帰るという意志は見えなかった。 (中略)  「一番しあわせな今逝けたら思い残すこともないのに、と。口癖のように言っていたから、もう死なせてもらえる、と言う、強固な確信を持ってしまったのだと思えて仕方ない。兄も義姉も、そのつもりかも知れないということは、思いながら、それでも……。  平成十八年五月午後十時二十五分永眠。 (中略)  野辺の送りは、途中突然兄が思い出した道で、母の子供時代の街並をうしろに「ごくらくばし」を渡ってゆきました。  先の小句集『残る生へ』は「夕桜」から「迎春花」までの百三十八句だったが、今回「句萌拾遺」百三十四句を加えてささやかな追想集を編みました。お目通しを頂けますよう念じ上げ、ここに生前のご厚誼を深謝し衷心よりお礼申し上げます。――七七忌に寄せて。                      ー追補二版「句萌拾遺」となっております。  とあった。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておきたい。   みほとけのほとけの桜ふぶきかな       マサノ   春昼や誰が為ならむ泣羅漢   寒雀遊ぶや馬頭観世音   はつなつや片言の嬰に招かるる   薫風や大樹がもとの老遍路   水かへてしんじつ金魚せはしなや   笙の音や瞳あつめて舞扇   金色に陽は沈みつつ海雲雀   手を筒に呼んでをりけり雲の峰      ー智弘の婚礼   汗を拭く顔少年になつて来し   稲妻や力のこもる嬰の指   揚雲雀天に梯子のある如く      ー各地方法務局歴任のご褒美なのに   褒章通知辞退の兄や山笑ふ   亡夫通し父母とほし彼岸花   誰彼と会ふや桜ふぶきなか      ー平成十七年十月入院 母...

正岡豊「泣いてもだめ 死ねばなおだめ 続けなさい 生き残り『だるまさんが転んだ』」(『白い箱』)・・

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  正岡豊第二歌集『白い箱』(現代短歌社)、帯文は高山れおな、それには、  この歌集には、昭和最後の男の児の声が充満している。そもそも私にとって正岡豊は、〈沼になる寸前をきみにみられてしまう〉や〈鷹としてふいにけむりをさけるかな〉の俳人なのだ。感傷の欠片も無く、地獄の機械 (インファナル・マシン) のように美しい正岡の俳句を人間化したのが『白い箱』の短歌だ、と私は理解した。当否はしらない。  とある。また。「あとがき」には、  (前略) それでもまだ「短歌」から自分が離れずにいるのは、結局「言葉で書けないものを言葉で書く」というところに、ひたすら執着しているからだと思う。  何かわからないものがそこにある、という、その感覚。または直観。  自分にとって短歌で一番大事なものは、つまるところそれなのである。  とあった。たしかに愚生にとっても正岡豊と出会ったのは、若き有望な俳人としての桐野利秋こと正岡豊だった。永田耕衣の「琴座」、そして、愚生と同じく「未定」同人だった。そして「俳句空間」第22号(1992年10月)では「新鋭作品欄・第5回新人賞」の受賞第一作は「そしてぼくも夏菊となり河をわたった」であった。その中から、3句を以下に、     振り向けば秋、海、しょうが、秋、海、海     桐野利秋(正岡豊)     夏菊をはだかのきみにかけてやる    髪と柩でドッジボールコートに天国をつくれ   ともあれ、本集より、愚生好みに偏するが、いくつかの歌を挙げておきたい。  子供たちがさわぐので殺してしまいました わたしたちはうるさかったのです、と政府  妖怪はいて怪獣はいなかった 帽子を脱いで沼を見ていた  人の死はこころの死なの? 腎臓はてのひらのごと左右にありて  「楽するためならどんな苦労も厭わない」矛盾が創りだしたシステム  巻貝を何個もひろっていらっしゃい それがわたしのやさしさだから  『金子兜太戦後俳句日記』にちらと出て二度は出て来ぬ島田修二  空中で鳥は死ねない廣澤の池の地蔵のくらがり  オリンパス・ペンを肩がけしてるのが父さん私の妻なのですよ  ふゆかぜがいなくてはならない人をいられなくした時代があった  人間はこころが痛がりだから「静御前」はこの朝も静か                     *「静御前」は洗濯機の名称   一度だけ書き込めるそのCD...

飯島晴子「寒晴やあはれ舞妓の背の高き」(『およばずながら』より)・・

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  石井隆司『およばずながら/俳句と人生と編集者』(KADOKAWA)、「はじめに」の結びには、 (前略) 木の葉髪ふるさと遠く住む身かな   村山古郷  俳句の仕事に就いて、どれくらいになるだろう。総合誌を担当してからでも二十五年以上が過ぎた。本当に、月日の経つのは早い。 (中略)  加齢と環境のせいだろうと思うが、それならば、俳句と過ごしたこれまでの日々を思い出し、改めていま思うこと、気がついたこと、なにより大好きな俳句や俳人たちのことを書き留めておこうと思うようになった。  気楽にお読みいただけると、嬉しい。  とある。また、「すこし長めの あとがき」の中には、  (前略) 最後の章に収めた「およばずながら」は、新たに書き下したもの、俳句の基礎知識からはじまり、俳句への向き合い方や心構えなど、私の俳句編集業務に関する多くは、鈴木豊一さんからの有形無形の教えによるものである。仕事を共にしたひとりとして、満腔の感謝ととともに書き遺しておきたいと思った。もとより鈴木さんの業績はこれにとどまらず、拙文は断章にすぎない。しかし昭和の終わりから平成にかけて、こんな俳句編集者がいたのだということだけでも知っていただけたら、嬉しい。  とあった。愚生には、鈴木豊一について、忘れられない二つの思い出がある。一つは、三橋敏雄読本の企画であり、一つは『高柳重信読本』(角川学芸出版)についてである。まず『高柳重信読本』については、その編集後記に(S)とあるのは、鈴木豊一であろう。そこに、   (前略) かつて「俳句」の別冊として『現代俳句辞典』を企画した折、「俳句研究」の編集長だった高柳氏は全面的な協力を惜しまず、特に新興俳句関連の立項や執筆者の選定など、多くの助言をいただいた。公正無私の姿勢に感銘したことを憶えている。また、「俳句」編集をはなれるとき、俳句文学館の地下で行われた有志の会に出席した氏は、「浅沼稲次郎が党首立合い演説会で凶刃に倒れたとき、国会の追悼演説は総理大臣池田勇人の感動的なものだった。今夜のあなたへの追悼演説はぼくがすべきであった」と言った。含羞の笑顔が瞼に焼きついている。俳句への礼節と来者への畏敬を忘れなかった先駆者の光が、うすぐらい俳句の道を照らしてくれるだろう。  と記している。この『高柳重信読本』の出来上がりが、その協力者の一人である岩片仁次に、何...

岩﨑俊「沈々と深々とあり枯葎」(『風の手紙』)・・

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 岩﨑俊第一句集『風の手紙』(角川書店)、序は増成栗人。その中に、     椎若葉風の手紙の届きけり  書名となった作品である。「風の手紙」とは紛れもなく岩﨑俊氏の己が心との対話であり、如実に著者の人柄を伝達する一語だあると思っている。こうした自然との、暮らしとの対話が著者の俳句の本質。静かな息遣いの中で全てを受け入れるような寧らぎのある一句である。椎の若葉をやわらかく揺らす風のたたずまいの中に、著者の心音が聞こえ来るような思いがする。  とあり、また、著者「あとがき」には、  (前略) この七年の間には、東日本大震災があり、また義母と母を相次いで亡くし、生と死について考えざるを得ない期間でした。五十代から発症したパーキンソン病についても、現実を受け入れて向かい合う必要がでてきた時期でもあります。  題に選んだ「風の手紙」は私の句〈椎若葉風の手紙の届きけり〉から採ったものです。この句を作るとき、いくつかのことが頭に浮かびました。たとえば十八年前に、猫らしく誰も近づけずに死んだ風 (ふう) という飼い猫のことです。家族で一番深く心を通わせていた当時高校生の息子は「一番大切な人が死んでしまった」と呟いたものです。  とあった。岩﨑俊は、昨年夏、現代俳句協会の新会員のために「全句講評講座」が開設された。その折、愚生が、ユーチューブ視聴可能者のためにの講師を務めたときの受講者であった。その時の俳号は「草 俊風」。そのとき、愚生は俳号にフリガナがなく、読み方がわからなかったので、「草(くさ)さんですか? 「そう」さんですか?」と呼びかけたのだった。句は、   どのように生き抜いていま仔猫鳴く    草 俊風    シクラメンが鳴く雀らの来ぬうちに      だった。少し、講評し、句柄について、参考までにと、添削の候補をいくつか示したようにも思う。その後、日を経て、本句集を恵まれたので、岩﨑俊=草俊風だということがわかった。本句集には、平成21年6月から平成28年5月までの7年間の336句が収録され、2016年8月25日発行、すでに8年近く前のことになる。  ともあれ、愚生好みに偏するが、本集より、以下にいくつの句を挙げておきたい。    水際の枯色もまた春の色          俊    ちびちびと白湯はらはらと春の雪   囀りの森の奥まで大入日   蝌蚪のゐて水口の...