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蕪村「月天心貧しき町を通りけり」(『蕪村の百句』)・・

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 内田茂著『蕪村の百句』(ふらんす堂)、帯文は藤田真一。その帯には、    蕪村全三千句、そのうち百五句を選んで評した書。  蕪村の鑑賞は、明治の正岡子規以来重ねられてきたが、この度の百句読解は、新たな蕪村像をいかにみせてくれるか。本書を通じて、蕪村の真骨頂に迫ってみたい。句の配列は年次順とし、蕪村の生涯とともに味わうことができる。  とあり、内田茂は、冒頭の「Ⅰ 俳人としての蕪村」に、  私は、芭蕉が人生を込めて「侘び・寂び・かろみ」などの蕉風を創出・探求したのに対して、蕪村は、虚構の世界をさ迷いながら、ひたすら架空の美を求めた詩性こそが特徴であると思っている。そして、句に故事を隠したり、浪漫や物語を込めた遊び心は、蕪村の魅力であり、偉才だと感じている。この『蕪村の百句』は、蕪村の生涯の節目にも触れるとともに、蕉門十哲ともいわれる門弟たちや一部の俳友をも紹介しながら、できるだけ詩や物語、浪漫や遊び心などを感じとれる句を紹介。鑑賞していく。  とあった。本書中より、一、二例を挙げておこう。    牡丹 (ぼたんちり) て打 (うち) かさなりぬ二三片  牡丹の花びらがいつの間にか舞い散り、二三枚の花びらが静かに地上に重なりあっているという景だろう。蕪村の愛弟子で、のち夜半亭三世を継承する几董が、この句を「牡丹の優美なるを体として、やや移ひたる花の二ひら三ひら落ち散りしを、打重なりぬとしたが作意なり。二三片と堅う文字を遣ふたは、題の牡丹に取り合せし趣向なり」と評している。確かに〈打かさなりぬ〉は花弁が地に落ちている表現として秀逸だと思うが、句全体は一句一章で、〈二三片〉は、俳句全体を漢語的に強調する蕪村の手法と捉えたい。   河童 (かはたろ) の恋する宿や夏の月  〈河童〉は、かっぱのことだが、「かはたろ」は、京都近辺の方言だ。河童は、「人をして水中に引き入れんとす。或いは恠 (あやしみ) をなし婦女子を姦淫す」(『物語称呼』)とあり、現代感覚よりも、はるかに怖い存在だったのだろう。〈恋する宿〉の解釈がポイントだが、この河童は、川近くの家に住む美しい娘に執心しており、水中に引き入れる機会を窺っている、あるいは、近在の若者に化けて娘の家を訪れようとしている、とも考えられる。〈夏の月〉が涼しげで、幻想的な景を醸し出しており、河童の執着、情念との対比が鮮やかだ。河...

芭蕉「旅人と我名(わがな)よばれん初しぐれ」(『星を見る人』より)・・

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  恩田侑布子著『星を見る人/日本語、どん底からの反転』(春秋社)、帯の惹句に、 ことばの手ざわり、肌ざわりに誘われ、情感の深みへ 芭蕉、蛇笏、久保田万太郎、石牟礼道子、荒川洋治、井筒俊彦、草間彌生…… 風合いある表現に、ゆらぎ、渦巻き、なりかわる、こころ・からだ・いのち。 芸術選奨文部科学大臣賞・ドゥマゴ文学賞俳人による五感を震わせる評論!  とある。そして、ここでは、直近の「現代俳句」(現代俳句協会)2023年1月号の「新説『笈の小文』切れと感情の大陸」から、少し引用しておきたい。   (前略) 『小文』は他の四つの紀行文のような、いわゆる絵巻様式によって構想されたものではないであろう。驚くげきことだが、芭蕉の意欲と創意は、宗達以来の美術様式、『扇面散屏風』を、己の文学にひそかに換骨奪胎しようとした可能性がある。現在では時系列や主人公がバラバラな小説は少しもめずらしくない。もしかして『小文』はそのひそかな嚆矢ではなかろうか。日本文学史上における新フォルムの出現といってみることができそうなのである。『小文』は珠玉の陰画 (ネガ) の魅力をたたえている。 『小文』が『扇面散屏風』の形式を構想して書かれたとする理由の一つは、扇面形式が絵巻形式よりもさらに大胆自由に時空を超越できることである。 (中略)  二つには、普遍的な人間感情の肯定である。芭蕉は恋に盲目の単なる痴れ者ではなかった。自身の「山館・野亭のくるしき愁 (うれい) 」「酔 (よへ) ル者の妄語」を人間の普遍的感情として、ゆたかな文藻を駆使して相対化しようとしたのである。 (中略)     乾坤無住同行二人   よし野にて桜見せふぞ檜の木笠   よし野にて我も見せうぞ檜の木笠   万菊  両句の前に置かれた百数字の紀行文は、生涯にこれほどのこころ弾みよろこび満ちたことはない、というあでやかな彩りの扇面である。 (中略) 万菊(杜国)の句は従来、「吉野山で私も桜の花を見せてやろうよ、檜笠よ」と、芭蕉の畳句以上の意味を持たないものとして解釈されてきた。しかし、そうではあるまい。「我も」は花のなかの「花」を象徴する隠喩であろう。杜国こそ芭蕉の「花」なのである。 (中略)     明石夜泊   蛸壺やはかなき夢を夏の月 『笈の小文』の掉尾 (ちょうび) をかざる珠玉の扇面である。現実には芭蕉と杜国は須磨に泊...

飯田蛇笏「つぶらなるなす汝(な)が眼吻(す)はなん露の秋」(『山の本棚』より)・・

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  池内紀著『山の本棚』(山と渓谷社)、本書は月刊誌「山と渓谷」の2007年1月号から2019年10月号まで連載された「山の本棚」を一冊にまとめたもの。従って、ブログタイトルにした蛇笏の句「つぶらなるなす汝が眼吻はなん露の秋」は、『飯田蛇笏集成』(角川書店1994年~95年・全7巻)で池内紀の記事中にある。その中に、  飯田蛇笏句集は山の本棚に欠かせない。本名、飯田武治。山梨県東八代郡五成村(のち境川村。現・笛吹市)の旧家の生まれ。一度は東京に出たが、家を継ぐべく二十四歳のとき郷里に帰った。明治末年のことである。  つぶらなるなす汝 (な) が眼吻 (す) はなん露の秋 若いころはローマン的な作風だった。それがしだいに変わっていく。  炭売 (すみうり) の娘 (こ) のあつき手に触 (さわ) りけり 旧家の総領息子にとって、山居は宿命のようなものだったのだろう。そこから悠大な風土を詠み込んだ格調高い作品が生まれた。  雪やみて山岳すわる日の光り   (中略)   極寒の塵 (ちり) もとどめず巌 (いわ) ぶすま 何万語ついやしたからといって、山の壮大さが伝わるとはかぎらない。切りつめられた十七音が巨大な大地のかたまりと向き合って、一歩もひかないけしきである。  とあった。ともあれ、本書中にいくつかの句があるので、そのなから二、三挙げておこう。   山冷えに濃き薄きある紅葉 (もみぢ) かな   井上井月 『井月句集』(岩波文庫)    吹きよせるかぜも木の葉の名残かな   雉鳴くや (かん) 八州を一呑みに  『写真句行 一茶生きもの句帖』(小学館文庫)   古郷は蠅すら人をさしにけり  池内紀(いけうち・おさむ)1940年、姫路市生まれ。           芽夢野うのき「照り翳り柘榴の一つ天上へ」↑

平畑静塔「徐々に徐々に月下の俘虜として進む」(『平畑静塔の百句』より)・・・

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  五島高資著『平畑静塔の百句』(ふらんす堂)、巻末に「平畑静塔小論」を収める。右ページに静塔の一句とその句の鑑賞が左ページに掲載されている、レイアウトである。一例を挙げておこう。       我を遂に癩の踊の輪に投ず      『月下の俘虜』                         昭和22年   岡山のハンセン病患者隔離施設を大阪女子医専の学生達と訪れた際の作。折しも患者らによる盆踊が催されていた。当時、癩菌の感染力は低いことは知られていたが、治療法が充分に確立されていなかった。ゆえに患者と接近することは躊躇われたはずだが、学生に促され静塔はその踊の輪に加わった。それはまさに我を捨て去る「忘我」の境地だったのではないか。盆踊における音楽性と体感性、そして何よりのその回転運動が二項対立的な観念を超えて真の人間性を発露させるのかもしれない。以後、それは静塔俳句の核心的な詩境となる。   ともあれ、以下に本誌より句のみになるが、いくつかを挙げておこう。   ガスマスクやけに真赤な雲だけだ         静塔    狂ひても母乳は白し蜂光る   青胡桃みちのくは樹でつながるよ   苗竹の根付きし大和島根かも    〈 その自註には「若山農園の幸央俳人 (愚生注:若山幸央) は、目下竹の実生に打ちこんで、開花竹から採った実を畑にまいて、秋には発芽新生して来たのを一目見せてくれた」とある。竹の開花も珍しければ、専ら地下茎で殖える竹にあっては、実生からの栽培は難しいとされる。 〉    栗拾ふものの光の見ゆるとき   三日月の光にふれて螢消ゆ   鉄格子からでも吹けるしやぼん玉   表裏なくかがやく精神科の聖樹     初雪やけがれなくして狂へるよ    平畑静塔(ひらはた・せいとう) 1905.7.5~1997.9.11 和歌山県生まれ。 五島高資(ごとう・たかとし) 昭和43年、長崎市生まれ。 ★閑話休題・・港千尋・平藤喜久子編『〈聖なるもの〉を撮る――宗教学者と写真家による共創と対話』・・  港千尋・平藤喜久子編『〈聖なるもの〉を撮る〉――宗教学者と写真家による共創と対話』(山川出版社)、本書は、第1部「聖なる風景」、第2部「聖なる人」、第3部「先人たちのまなざし」からなり、執筆陣は14名。まったく門外漢の愚生なのであるが、縁あって露口啓二(1950年...

大高霧海「梧逸の句『無口を愛す』吾亦紅」(『水晶』)・・

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 大高霧海句集『水晶』(東京四季出版・俳句四季文庫38)、序は(1996年首夏とある)、松本澄江、その中に、  (前略 )霧海氏はその人格に公私共に影響されて俳諧の道を一途に歩み成長され、今日に至っている。従って、虚子、風生、梧逸という私の師系をも踏襲され、研鑽を怠らず写生に徹して来られた。その徹底ぶりは、たまたま家が同じ町内ということもあり、毎日十句を朝のジョギングの折に発行所の郵便受に入れ添削を求められた。従って受け入れる側もうかうかしていると句稿が溜るのでその都度拝見しては返稿した。初めは三ヵ月もすればよいがと思っていたのだが、それが半年となり、一年、三年、五年と続き今日迄続いていることは驚異というよりほかにない。 (中略)   霧海氏は常に己を戒め克己心が強く、しかも、向日性で勉強家である。その人柄が俳句の上にも滲み出ていよいよ魅了する深まりを見せることは疑う余地がない。今ここにウイーン、ハプスブルグ家遺宝水晶の高脚杯の写し絵が高雅な紋様を浮彫に輝きを見せている。句集『水晶』が褻の人々の深奥に光を与えんことを願い心より幸あれと祈るものである。  とある。また、本文庫版のための著者「あとがきⅡ」には、 (前略) 私は入門当初先師松本澄江先生から「客観写生」「徹底写生」「発見写生」に徹するよう厳しく指導された。晩年の俳人としての出発であったが、澄江師のご指導のもと今日まで三十六年間俳句に精進できた。弁護士生活の晩年俳句の道に学んだことが、私にとって大変感性豊かに毎日を送っていることにつながり感謝している。これも俳句の道に導いていただいた上山如山先生のおかげである。 (中略) 私の原点である句集を私自身反省すべき点を点検して、今後の句作に生かしていくよう心掛けたい。  とあった。ともあれ、集中より、愚生好みに偏するがいくつかの句を挙げておきたい。    阿蘇五岳寝釈迦をなせり今朝の冬      霧海   トーチカの廃墟そのまま葱坊主   秋蝶のたよたよ渡る芝翫河岸   ゴールデンバット墓前に桜桃忌   津軽はや秋草のなか梧逸句碑   卵食ぶ三鬼の句あり原爆忌   五体投地大暑にたへし修行僧      一茶庵   笑栗やつひの栖の土蔵裏   芋の露いびつに貌をうつしをる      松山   露人墓地入り口飾る犬ふぐり      文晁寺   山清水したたるひびき立子句...

高野ムツオ「生者こそ行方不明や野のすみれ」(「コールサック〈石炭袋〉」115号より)・・

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 「コールサック」115号(コールサック社) 、特集Ⅰは「関悦史が聞く〈俳人の証言シリーズ(3)高野ムツオ—人間を踏まえた風土性の探求」。高野ムツオの生年の事情から、あまなすところなく語られているので、愚生にとっては、実に面白かった。愚生より一歳年上なのだが、同時代を歩いてきたので、納得のいくところが多い。一読を勧めるが、その一部を紹介しておきたい。「兜太の風土、鬼房の風土」の部分で、  (前略) 『今日の俳句』の「造型論」読むんだけれど、あの「造型論」読んだって、俳句上手くなんねえもんね。描写からイメージ、イメージ1、2,3って。こういうふうに造型して、こういう展開していけばいいって。あれは一応、カルチャーのパターンであって、本当の俳句はあそこを抜けないといけないよね。実際金子兜太の俳句は、そういうイメージの造型とか理屈を超えたところで、そういう世界ではないところでもって、もっと生な人間の声をちゃんとバックボーンにして、表に出しながら、なおかつ言葉の中に世界を形象する。しかも、形式そのものをはみ出すような力を持っているわけですよ。その形式をはみ出すような力っていう点では、佐藤鬼房の方が形式の典型を見極めるという意識が強いんだよね。ここちょっと金子兜太と佐藤鬼房の違うところ。いずれにせよ、人間の表現であることが大事だということ。 (中略)   金子兜太と佐藤鬼房は相互影響ありましたよ。私から言えば、多分金子兜太が同世代の俳人の中で一番評価しているのは佐藤鬼房だと思います。金子兜太は鈴木六林男とは合わないと思います。やっぱり、風土を踏まえているか、踏まえていないかで違うと思います。鈴木六林男は、あの人が踏まえてんのは戦争体験です。そこは徹底していていいんだけどね。戦争を踏まえて、人間のあり方っていうのを俳句の中で徹底して、死ぬまで追求していたのは、鈴木六林男ですよ。 (中略)  こだわりの強い人で佐藤鬼房の追悼文に「白泉の指導を受けていた」と書いたら、そんなことはないと鬼房のお別れの会で粘られたね。三橋敏雄に聞いても間違いなし、鬼房自身も文章で通信指導を受けていたと書いている。師をめぐってもライバルだったんだね。強烈な個性の人だった。  とあった。ともあれ、本誌の中から、いくつかの句を挙げておきたい。    野に拾う昔雲雀でありし石         高野ムツオ    ...

小池光「正規軍は白き『Z』を反乱軍は赤き『Z』を戦車にしるす」(「短歌」9月号)・・

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  「短歌」9月号(角川文化振興財団)、特集は「 没後七十年 釈迢空の霊 (たましい)」。編集後記にもあるが、「俳句」創刊号は迢空の追悼号で始まったので、「短歌」創刊70周年でもある。論考は、総論に高橋睦郎「迢空再読」、沢口芙美「『倭をぐな』の多様な魅力」、倉沢寿子「歌集『海やまのあひだ』への愛着」、阿木津英「モラルの感覚」、三浦雅士「折口信夫と『さびしさ』の起源」、鎌田東二「言霊の歌人・釈迢空」など。特別作品に、岡野弘彦「わが師を思ふ」10首。なかでも高橋睦郎は、  (前略) 迢空は伊勢との訣別後もその写真をひそかに匡底に秘めており、迢空の逝去直後最初の門弟中最後まで迢空に忠実だった鈴木金太郎が遺品を燃やす火の中にくべていたと岡野さんから伺ったことがある。これを比喩的に、迢空における伊勢清志はかの古代ギリシャの哲人ソクラテスにおけるアルキビデスに似た存在である、ということができるのではないか。  こんなことをいうのも、このわが国大正・昭和の歌人とギリシャ古典期の哲人に黙契にも似た近似性を覚えるからだ。大阪天王寺中学校後上京した迢空が少壮の新仏教家に愛されたように、若きソクラテスもイオニアからアテナイに来た哲学者アルケラオスの愛を受けている。迢空の好みの弟子への性愛は存命中から暗黙の了解事項だったが、ソクラテスのそれもプラトンの諸対話篇に明らかだ。 (中略) ソクラテスがペロポンネソス戦役敗戦後の暗黒時代に一命を賭して自分とは直接関係のない無辜の人を救った挿話は有名だが、迢空の勇気もそれに劣らない。太平洋戦争中の昭和十八年春、日本文学報国会理事会での軍の報道高官によって事務局長があわや国賊とされそうなところを、立ちあがり静かな声で論拠を挙げて救った顛末を、戦後になって平野謙が感嘆をもって伝えている。迢空という女性の声の持主は同時に軍の権力をも畏れぬ勇気の持主だったのだ。 (中略)    戦ひに果てしわが子も 聴けよかしー。かなしき詣旨 (ミコト)  くだし賜ぶなり  同性愛的共感から出た愛の感情はホモ・ソーシャルな関係にとどまることなく異性にも及ぶ。これは明治維新以来はじめての体験である敗戦を潜ったという社会的事情もあろうが、同じ家の中で父と母の妹とが通じて双児の弟が生まれたという特殊な家庭事情にも拠っていよう。この点だけでいうなら、女性的声を持つ迢空はひた...