芭蕉「旅人と我名(わがな)よばれん初しぐれ」(『星を見る人』より)・・
恩田侑布子著『星を見る人/日本語、どん底からの反転』(春秋社)、帯の惹句に、
ことばの手ざわり、肌ざわりに誘われ、情感の深みへ
芭蕉、蛇笏、久保田万太郎、石牟礼道子、荒川洋治、井筒俊彦、草間彌生……
風合いある表現に、ゆらぎ、渦巻き、なりかわる、こころ・からだ・いのち。
芸術選奨文部科学大臣賞・ドゥマゴ文学賞俳人による五感を震わせる評論!
とある。そして、ここでは、直近の「現代俳句」(現代俳句協会)2023年1月号の「新説『笈の小文』切れと感情の大陸」から、少し引用しておきたい。
(前略)『小文』は他の四つの紀行文のような、いわゆる絵巻様式によって構想されたものではないであろう。驚くげきことだが、芭蕉の意欲と創意は、宗達以来の美術様式、『扇面散屏風』を、己の文学にひそかに換骨奪胎しようとした可能性がある。現在では時系列や主人公がバラバラな小説は少しもめずらしくない。もしかして『小文』はそのひそかな嚆矢ではなかろうか。日本文学史上における新フォルムの出現といってみることができそうなのである。『小文』は珠玉の陰画(ネガ)の魅力をたたえている。
『小文』が『扇面散屏風』の形式を構想して書かれたとする理由の一つは、扇面形式が絵巻形式よりもさらに大胆自由に時空を超越できることである。(中略)
二つには、普遍的な人間感情の肯定である。芭蕉は恋に盲目の単なる痴れ者ではなかった。自身の「山館・野亭のくるしき愁(うれい)」「酔(よへ)ル者の妄語」を人間の普遍的感情として、ゆたかな文藻を駆使して相対化しようとしたのである。(中略)
乾坤無住同行二人
よし野にて桜見せふぞ檜の木笠
よし野にて我も見せうぞ檜の木笠 万菊
両句の前に置かれた百数字の紀行文は、生涯にこれほどのこころ弾みよろこび満ちたことはない、というあでやかな彩りの扇面である。(中略)万菊(杜国)の句は従来、「吉野山で私も桜の花を見せてやろうよ、檜笠よ」と、芭蕉の畳句以上の意味を持たないものとして解釈されてきた。しかし、そうではあるまい。「我も」は花のなかの「花」を象徴する隠喩であろう。杜国こそ芭蕉の「花」なのである。(中略)
明石夜泊
蛸壺やはかなき夢を夏の月
『笈の小文』の掉尾(ちょうび)をかざる珠玉の扇面である。現実には芭蕉と杜国は須磨に泊まった。しかし、芭蕉は前書きにはどうしても源平の一ノ谷の古戦場のイメージがつよい須磨ではなく、「明石夜泊」と誌したかった。(中略)さらにもう一つ、「蛸壺」には、いままで誰にもいわれたことのない秘密が隠されていた。名古屋で杜国が華やかに営んでいた米穀商は、なんと「壺屋」という屋号だったのである。(中略)
名古屋の大店(おおだな)、壺屋の若主人よ。思いもかけぬ運命のむざんに斃れた杜国よ。そなたと連れ立った百日の旅寝の夢は、波に沈む蛸壺に眠るはかなさに斉しかったのだろうか。(中略)
ここには夭折した白哲の詩人、杜国への鎮魂と熱情が入れ子構造をなしている。〈白げしにはねもぐ蝶の形見哉〉と双璧をなし、しかも日本文学の歴史を包含する愛の金字塔といえよう。
とあった。ともあれ、本書の他の章の中から、アトランダムになるが、句をいくつか挙げておこう。
毒死列島身悶えしつつ野辺の花 石牟礼道子
またせうぞ午後の花降る陣地取 攝津幸彦
水にまだあをぞらのこるしぐれかな 久保田万太郎
戦争と畳の上の団扇かな 三橋敏雄
秋の金魚ひらりひらりと貧富の差 大牧 広
はにわ乾くすみれに触れてきし風に 黒田杏子
死して尚ひと世了らず蕗の薹(ちゃんまいろ) 宮坂静生
男契(なんけい)の色もしいはば鳥兜 高橋睦郎
吹く風の緩めば昇るはなびらよ 正木ゆう子
咲き満ちて桜の中は妣(はは)の国 鈴木太郎
月光巡礼
崑崙の山羊
母は
織り継ぐ 上田 玄
詠まざればやがて陽炎(かげろう)獄の息 中川智正
恩田侑布子(おんだ・ゆうこ) 1956年、静岡市生まれ。
撮影・中西ひろ美「ヒト科ヒト過去しか見えぬ目を持ちて」↑
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