高野ムツオ「生者こそ行方不明や野のすみれ」(「コールサック〈石炭袋〉」115号より)・・


 「コールサック」115号(コールサック社) 、特集Ⅰは「関悦史が聞く〈俳人の証言シリーズ(3)高野ムツオ—人間を踏まえた風土性の探求」。高野ムツオの生年の事情から、あまなすところなく語られているので、愚生にとっては、実に面白かった。愚生より一歳年上なのだが、同時代を歩いてきたので、納得のいくところが多い。一読を勧めるが、その一部を紹介しておきたい。「兜太の風土、鬼房の風土」の部分で、


 (前略)『今日の俳句』の「造型論」読むんだけれど、あの「造型論」読んだって、俳句上手くなんねえもんね。描写からイメージ、イメージ1、2,3って。こういうふうに造型して、こういう展開していけばいいって。あれは一応、カルチャーのパターンであって、本当の俳句はあそこを抜けないといけないよね。実際金子兜太の俳句は、そういうイメージの造型とか理屈を超えたところで、そういう世界ではないところでもって、もっと生な人間の声をちゃんとバックボーンにして、表に出しながら、なおかつ言葉の中に世界を形象する。しかも、形式そのものをはみ出すような力を持っているわけですよ。その形式をはみ出すような力っていう点では、佐藤鬼房の方が形式の典型を見極めるという意識が強いんだよね。ここちょっと金子兜太と佐藤鬼房の違うところ。いずれにせよ、人間の表現であることが大事だということ。(中略)

 金子兜太と佐藤鬼房は相互影響ありましたよ。私から言えば、多分金子兜太が同世代の俳人の中で一番評価しているのは佐藤鬼房だと思います。金子兜太は鈴木六林男とは合わないと思います。やっぱり、風土を踏まえているか、踏まえていないかで違うと思います。鈴木六林男は、あの人が踏まえてんのは戦争体験です。そこは徹底していていいんだけどね。戦争を踏まえて、人間のあり方っていうのを俳句の中で徹底して、死ぬまで追求していたのは、鈴木六林男ですよ。(中略)

 こだわりの強い人で佐藤鬼房の追悼文に「白泉の指導を受けていた」と書いたら、そんなことはないと鬼房のお別れの会で粘られたね。三橋敏雄に聞いても間違いなし、鬼房自身も文章で通信指導を受けていたと書いている。師をめぐってもライバルだったんだね。強烈な個性の人だった。


 とあった。ともあれ、本誌の中から、いくつかの句を挙げておきたい。


  野に拾う昔雲雀でありし石        高野ムツオ

  みちのくの今年の桜すべて供花       〃

  泥かぶるたびに角組み光る蘆        〃

  コスモスの花占いはいつも吉        崔 龍源

   〈海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり 寺山修司〉

  修司忌のクロワッサンは手を広げ     岡田美幸 

  生きものの定めかなしや虫送り      今宿節也

  夏の夢革命はなし政変も         松本高直

  かたつむりアリバイのない長い夜     福山重博

  黙禱を終へまた前を花辛夷        原詩夏至

  

  百合咲きぬ

  駐車場脇

  白ラッパ               水崎野里子


  鬼決めの為のじやんけん寺山忌      鈴木光影

  夏太りしているうちはまだ若い      堀田京子



★閑話休題・・柴田啓藏「♪我らはかつて炎天下 地に足やきしはだしの子」(「水平歌」より)・・

 今年が関東大震災100年なら、当然ながら、大杉栄・伊藤野枝、甥の橘宗一虐殺100年である。先日、愚生の断捨離の本の中から、零れ落ちた『水平社宣言・解放歌・CD付』(解放出版社)があって、思い起こしたのだ。全国水平社創立宣言は1922年3月3日だから、101年前にあたる。それは、かの有名な、「全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ」で始まり、


  水平社は、かくして生まれた。

  人の世に熱あれ、人間に光あれ。

  大正十一年三月            

         水平社


 で結ばれる。因みに、来たる9月24日(日)13時~17時30分、明治大学駿河台キャンパス・リバティタワー1階で、「伊藤野枝・大杉栄ら没後100年記念シンポジウム『自由な自己の道を歩いて行こう』」が開催される。講演者は森まゆみ・鎌田慧らとあった。

          


撮影・中西ひろ美「秋はいま大通りまで来ています」↑

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