安里琉太「日永その海の濁りを云はずおく」(「滸」5号)・・
「滸(ほとり)」5号(「滸」発行所)、特集1は「西原裕美 二〇二一年度第五〇回南日本文学賞受賞記念」、特集Ⅱは「髙良真実 二〇二二年度第四〇回現代短歌評論賞受賞記念」、特集Ⅲは「詩歌句トライアスロン」、特別対談に「平安まだら『パキパキの海』を読む」、評論に安里琉太「読みかつ書く私たちにとっての身体ー岩田奎『膚』に触れてー」、髙良真実「新かな口語歌集中の文語助動詞に関するレポート」、屋良健一郎「屋部公子、内観のうたびと」。他に、各同人作品である。詩編については、愚生のブログでは紹介しきれないので失礼する。 特集Ⅲ「詩歌句トライアスロン」では、各同人が詩・短歌・俳句の実作をそれぞれ実行した合評会の様子が収録されている。ここでは、評論の中から、安里琉太の「読みかつ書く私たちにとっての身体ー岩田奎『膚』に触れてー」のごく一部分になるが、引用しておこう。興味のある方は、直接、本誌に当たられたい。 (前略) Ⅱ/昨年末、岩田奎による第一句集『膚』(ふらんす堂・二〇二二年)が刊行された。櫂未知子はその帯に次の文を寄せている。 (中略) 櫂は「天才と呼びたくない」と述べながらも、その後の「俳壇は今、畏るべき青年をたしかに得たのである」という一文が示す通り、新興俳句的な理念のもとに岩田を期待し、岩田を「天才」に留まらないそれ以上の逸材として暗に推している。この櫂の帯文に対して、「俳壇」なるものが今日どのように可能なのかという問いを素朴に思い浮かべてもよいのだけれど、むしろここで行われはじめていることが、「天才」に留まらない逸材の登場を触れ込むことによる「俳壇」なるものの呼び寄せと立ち上げなのだとしら、それは幾分か狡猾であり、「膚」というテクストにとってこれほど不幸なことなない。 とある。ともあれ、本誌本号より、アトランダムになるが、いくつかの作品を挙げておきたい。 菲才なる吾にしぐわつのぼうふらが立ち泳ぎしてさきはふるなり 安里琉太 精確に熟する、終わる、心から此処が蒸発する。ピクニック。 酢橋とおる わたしからわたしへ脱皮くり返す春よ光の致死量を思う 屋良健一郎 シベリアを越え海を越え降り積もる新型の雪・旧式の雨 髙良真実 窓際の初夏の日差しに取られてく猫の温もり冷めていく 西原裕美 風の日の妻う...