藤後左右「島の蟲鳴くな兵隊は泣かないぞ」(「子規新報」第2巻 第99号より)・・



 「子規新報」第99号(創風社出版内/子規新報編集部)、特集は「藤後左右の俳句」。寺村通信・小西昭夫「藤後左右の俳句」の中に、


(前略)寺村 藤後左右は俳句をやめてしまったわけではないのですね。しかも平成三年まで生きていますが、俳壇的には全く冷遇されたのでしょうか。(中略)

小西 そうですね、一般の藤後左右の印象は、やっぱり京大俳句の人という印象ですね。ひょっとしたら、殆んどの人が『熊襲ソング』が出版されたことも知らなかったのではないかと思います。(中略)

 ただ、左右はこれらの句を意図的に残したのです。『熊襲ソング』の「俳歴」と題した後書きに左右は、「俳句形式でどの位語れるかを試みた。私の句は常に試みであり完成されたものではないとの考えで作り捨てた。出て来る句が固定化したと感じたので自分の五、七、五を解きほぐす工作にとりかかった。最近のものはみなこれである。誰に何と言われようとも、自分の作りたい事を自分の思うように作ることにしている。時流におもねらず唯吾ひとりの道を歩くのみである。吾が作りしもの皆これ俳句なりと決めてかかっている」との覚悟を記しています。


 とある。そして、その例句に挙げられた連作の2句を孫引きすると、


  独り身はうらやましいがあわれだよ千鳥君

  淋しいこともたまにはあるだろうに千鳥君


 という具合、ともあれ、本誌の小西昭夫抄出30句のなかから、いくつかを以下に挙げておこう。


  狐火の消ゆると思ふ消へにけり      左右

  影のある蛹の脚を踏みにけり

  まつさをな雨が降るなり雨安居

  舞ひの手や浪花をどりは前へ出る

  蟇の貌チブス患者の夢にくる

  赤い花(ケンバンメラ)と答えて花の名を知らず


 藤後左右(とうご・さゆう)は、1908(明治41)年、鹿児島県曽於郡志布志町生まれ、本名を惣兵衛といった。没年は1991(平成3)年。本誌には、無限連載といってもいいコラム宇田川寛之「となりの芝生ー短歌の現在ー・181」、わたなべじゅんこ「母屋のひさしー俳句史の風景ー・170」、堀本吟「近くの他人ー現代川柳論ー・150」を楽しみに読んでいる。そして、本号の青木亮人「時のうつろい、句の響き㉝『角坂山のタイヤル族』」には、


   銀河冴ゆ四五戸の蕃社山の端に

 俳誌「ゆうかり」に載る句で、「蕃社」は原住民族(台湾では「先住」は使わない)の集落を指す語である。(中略)

 松尾いはほの紀行文では、巡査が教師を兼ねている様子が描かれている。巡査は読み書きの出来る知識階級であり、多くは日本人が勤め、他にも高級教育を受けた「蕃人」が日本風に姓名を名乗って教壇に立つことがあった。「ゆうかり」俳人の句を中心に集めた『台湾俳句集』には蕃社の巡査が教師を勤める様子が幾度となく詠まれており、そうした光景を日本の俳人が台湾独特の情趣と認識していた節がうかがえる。学校で日本語とタイヤル族の剽悍な男子たちは、後に太平洋戦争に高砂義勇隊として帝国陸軍に編入され、太平洋の島々で日本兵として戦場を駆けることになった。

  入学の蕃童つれし巡査かな    (『台湾俳句集』)


 とあった。



     撮影・鈴木純一「淡雪や消ゆる身なれどさりながら」↑

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