投稿

尾池和夫「綿虫に傘をさしかけ雨宿り」(「京大俳句・会誌:自由船」終刊号より)・・

イメージ
  「京大俳句・会誌:自由船」終刊号・令和6年3月(京大俳句会)、清水楽蜂「『京大俳句会』の軌跡(二〇〇九年ーニ〇二四年)」には、  二〇〇九年一月に始まった第三次「京大俳句会」は十五年の永い歴史を閉じて、二〇二四年三月に休会となる。京都大学を拠点として、ユニークな俳句活動を続けてきたこの会の歴史を振り返ってみたい。  二〇〇八年十一月二十四日、京大十一月祭が行われる中、「京大植物園を考える会」(以下、「考える会」)の主催で「第一回植物園吟行会」が行なわれた。「考える会」は、二〇〇二年に起きた植物園の樹木伐採問題を契機として、これに反対する学内外の職員、学生・院生、市民らが、二〇〇三年結成した自然発生的な環境運動であった。植物園の将来像を考えるために、会員制もとらず代表者も置かず、それぞれ自由な立場で意見を出しあい議論する会としていた。この会は植物園の観察会など活発な活動を行っていたが、大月健(図書職員)、中島和秀、(植物園園丁)、大石高典(大学院生)、影山貴子(図書職員)などが中心的な役割を担っていた。 (註1)  「考える会」の会報「ゆくのき通信第5号」に、そのときの句会の詳しい様子が載せられている。これには、俳句結社「氷室」の協力のもとに、当時の主宰であった金久美智子氏、その同人であった尾池和夫元京大総長も参加された。学内外から二十一名が集い、植物園での吟行の後、農学部の一室で句会が開かれた。 (中略)   そして年を越した一月二〇日に早速「第一回京大俳句復刊準備俳句会参加者募集のお知らせ」が掲示された。 (中略)   この第一回復刊準備会は二〇〇九年一月三十一日に京大農学部の図書読書室において参加者十二名で行われた。多くは「考える会」の関係者であったが、句会では次の作品が高得点を得ている。    故郷の山そのままに父逝きぬ        大月 健    泣き止まぬ空をあやして冬景色     小島くまひこ  (中略)  (註1)「考える会」は二〇一一年八月に第一〇〇回観察会を区切りとして解散している。(註2)新たに発足した「京大俳句会」を、大月健が「第三次」としたことについて、「京大俳句会と東大俳句会」(角川書店二〇〇一)の著者・栗林浩氏は異論を唱え、戦後直後に結成された京大内の複数の俳句サークルがそれぞれ「京大俳句」を主張していたことにより、これは「...

酒井弘司「冬青空永遠というひびきあり」(「朱夏」178号・30周年記念号)・・

イメージ
 「朱夏」178号・30周年記念号(朱夏俳句会)、巻頭の座談会は、酒井弘司・中岡昌太・米山幸喜「 新風に立つー『朱夏』創刊三十周年を迎えて 」。寄稿には、井川博年「『朱夏』三十周年で思うこと」、八木幹夫「エッケー・ホモー!(この人を見よ!)」、前田弘「伊那谷への想いー『朱夏』三十周年で思うこと」、筑紫磐井「『海程』創刊への激励」、大井恒行「『朱夏』三十周年記念号に寄せて」、中上哲夫「米国詩人たちを虜にした俳句」があり、また酒井弘司の記念講演「人間探求派の系譜ー金子兜太、森澄雄さん」の講演録の詳細な内容が掲載されている(貴重である)。  その他、「編集後記」に、  今号は、「朱夏」の三十年の歩みを詳細に記録。原稿の作成は手間どったが、後世に残す資料として万全を記した。  とあるように、「『朱夏』の三十年ー『年次大会』・『朱夏祭』」、「『朱夏賞』受賞者と作品(抄)」、「『朱夏新人賞』受賞者と作品(抄)」、「『功労賞』」、詳細な年表に「『朱夏』の歩み(創刊号・平成6年8月~一七七号・令和6年10月)」、土肥あき子「八月という記憶ー『朱夏』176号を読む」など、充実、保存版の趣である。今後も堅実に、かつ「俳句らしい俳句は作らないように」、「深」にして「新」の道をこれまでとおり歩まれるに違いない。ともあれ、以下に、本誌より、いくつかの句を挙げておきたい。      谷川俊太郎さん逝く   かなしみは花柊のむこうから       酒井弘司    南無大悲炎夏の無事を観世音       後藤田鶴(第18回朱夏賞)   二千年生きて楠大暑かな        紀平千寿子(第21回朱夏新人賞)   ブラームス天より恋を降らしをり     佐々木登    こすもや風の妖精色散らす        佐藤仁子    秋ざくら弘司節子の頬染めし       鶴田静枝   風神の脈打つ木の実拾いけり      内藤ちよみ     祝『朱夏俳句選集Ⅲ』   生きてゐる個性輝く秋の星        中岡昌太    神無月どこにも神の居ぬ地球       和田義盛    雪虫に紛れ挨拶交はしをり        米山幸喜   ピザふたり欠けてゆくさま霜降月     飯田香乃    遠ざかり光れるものを星と云ふ      磐井靖子      芽夢野うのき「冬枯れのからくれないのなかに返す」↑

重信房子「戦場の二月のなゐふる地底からへその緒のまま救われしいのち」(『ただいまリハビリ中/ガザ虐殺を怒る日々』より)・・

イメージ
   重信房子著『ただいまリハビリ中/ガザ虐殺を怒る日々』(創出版・定価1870円),その表紙と裏表紙には、   日本を出国してパレスチナに渡り、その後の投獄を含めて約50年ぶりに市民社会に復帰。  この一年は、ガザ虐殺に心を痛める日々が続いている。  【本書内容抜粋】  50年ぶりの市民生活/戦うパレスチナの友人たち/リハビリの春/  殺すな!今こそパレスチナ・イスラエル問題の解決を!/  これは戦争ではなく第二のナクバ・民族浄化/パレスチナ人民連帯国際デー/  ネタニヤフ首相のラファ地上宣言に抗して/イスラエルのジェノサイド/  パレスチナでの集団虐殺!/パレスチナに平和を!  とある。また、「はじめに」の中に、   獄を出てからもう2年4ヵ月がたちました。  あっという間に日々が過ぎ、今日は79歳の誕生日を迎えました。  篠田編集長に勧めていただいて、リハビリのつもりで書き出した「ただいまリハビリ中」も、もう2年になります。書き始めた頃は体調が本調子ではありませんでしたが、見るもの聞くものすべてが新鮮で、服従のみ強いられた獄を出て、自由に歩き回れることが何とも嬉しい再出発でした。 (中略)  他方で1年少し経った2023年10月7日、パレスチナの人々の決起、インティファ―ダの闘いが起き、その後のイスラエルによるジェノサイドが今に至るも続いています。 (中略)   パレスチナの情報を聞く祭に、まず心に留めて欲しい前提があります。それは、占領者イスラエルの支配の暴力と占領された被害者のパレスチナ人の抵抗の闘いという前提です。  「暴力」のみ捉えて「どっちもどっち」と考えないで欲しいのです。故郷を追われたパレスチナ人に、国連、国際社会がパレスチナ人の帰郷の権利を決定しているのに、76年にわたり帰れない現実。パレスチナの人々は、人間としての尊厳を持って生きる権利を取り戻すために抵抗の権利を行使しています。欧米メディアが言うような「テロ」ではありません。テロと片付けるところに問題の本当の姿が隠されているのです。 とあった。第3章「ガザの虐殺」の中に、 (前略) イスラエルの新聞ハアレツ紙が暴露したネタニヤフ政権の内部文書(ガザの北から南へとパレスチナ人を追いやってシナイ半島にテント都市を建設して住まわせ、そこにパレスチナ永住都市を建設するという秘密文書。ネタニヤ...

上野晴子「一隅にいつもさびしき風の吹くおのが心をはかりかねつつ」(『蕨の家/上野英信と晴子』より)・・

イメージ
 上野朱著『蕨の家/上野英信と晴子』(海鳥社)、その「はじめに」に、   一九九六年四月、筑豊文庫の建物は姿を消した。上野英信 (えいしん) 、晴子 (はるこ)、 朱 (あかし) の私たち親子三人が筑豊炭田の一隅、福岡県鞍手 (くらて) に移り住んだのは、世の中が東京オリンピックに浮かれ、明るい豊かな未来を夢見ていた一九六四年の春のこと、それから三十二年がたっていた。  崩れかけた共同便所の跡に建てられた台所と風呂と座敷二間の小さな家を出発点として、そばのこれも崩れかけた坑夫長屋を補修。図書室、剣道場兼集会所、事務室、居間を備えた「筑豊文庫」として正式に発足したのが一九六五年一月十五日である。  その門出に父は近隣の人々や支援の仲間を招き、次のような宣言文を掲げた。   筑豊が暗黒と汚辱の廃墟として滅びることを拒み、未来の真に人間的なるものの光明と英 智の火種であることを欲する人びとによって創立されたこも筑豊文庫を足場として、われわ れは炭鉱労働者の自立と解放のためにすべてをささげて闘うことをここに宣言する。  やや力みも見えるこの宣言文は、言ってみれば父の、自分自身への決意の確認であろう。炭鉱の記録者として自らをこの廃鉱集落に埋め、この地で日本の近代と闘うのだという出陣の前のような高揚した意識が、こうした調子の高い宣言文を書かせたのではないかと思う。  とあり、そして、中の「ハルマゲドン」の項に、   「いらんばい、を三回言うたらね、たいがいみんなかえるんよ」と笑ったのは、北九州市の印刷屋さんで絵草紙作家の故・山福康政さんだった。山福一家とは家族ぐるみでの長いつきあいだったが、もろもろの勧誘をいかに断るかという話になったときのことだ。 (以下略)  とあった。ここに来て愚生は、山福康政という名に、かつての穴井太の俳誌「天籟通信」の表紙を飾っていた版画を思い起こしたのだ。山福印刷という名もあったな・・・と。その娘さんの版画家・山福朱美のパートナーがたしか、愚生の友人の末森英機の子息であったはずだ・・と。不思議な縁もあるものである。 上野朱(うえの・あかし) 1956年、福岡市生まれ。  というわけで、以下には、現在まで続き、今年、創刊60周年を迎える「天籟通信」2025年1月号・第719号(現在の編集発行人は福本弘明)から、同人諸氏のいくつかの句を挙げておき...

荒木久子「男二人長き語らひ花八ツ手」(『花あかり』)・・

イメージ
 荒木久子第一句集『花あかり』(東京四季出版)、序は名取里美「涼しの女人」、その中に、  荒木久子さんを、季語でたとえれば、〈涼し〉がぴったりあてはまるとおもう。ときに和服を楚々と着こなし、俳句も洋裁もスイミングもお得意。背筋もすらりと気丈な美人であるからだ。 (中略)     毛虫焼く女に迷ひなかりけり    夜長なり句に生かされて護られて    白藤をふと蒼天に見失ふ    花御堂まで花びらの水たまり  この毛虫の作品は、「藍生」で黒田杏子先生にも評されていた作品である。この女のよにうに、荒木さんは迷いのないご信念のある方である。俳句に護られてきたという荒木さんのこの上ない歳月。天をにぎわす白藤は空のどこに消えたのだろう。花御堂までつづく水溜りに浮かぶ桜の花びら。仏生会の花のあかりの荘厳である。  俳人として、この世のあらゆる美や真実を、俳句作品にとどめるその力量に、私は敬意を抱く。  とあり、また、著者「あとがき」には、   令和五年三月俳句結社「藍生」は主宰の黒田杏子先生の逝去により終刊となりました。  同時に私の俳句人生も終止符を打つはずでした。  ところが句縁は切れることがありませんでした。名取里美先生の「あかり」俳句会立ち上げにより、私も参加させてもらうことに。 (中略)   話下手な私は割と筆まめな方であり、表現方法として、俳句はよく合っていると思っています。  日記の隅っこに書いたつぶやきが、俳句となっていきました。  『花あかり』は藍生集投句の杏子先生の選を受けた句を中心にまとめ上げました。  とあった。そして、集名に因む句は、    小さく産み大きく育て花あかり       久子  であろう。そして先日、送られてきた「あかり」第3号(あかり俳句会)には、荒木久子の句のひとつに、    木の実降る子の入りたき遊びの輪  があった。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するが、以下に、いくつかの句を挙げておこう。    喪の服にそれぞれの黒秋時雨   恋猫の恋して癒す恋の傷   枇杷の実の取れずに取らず取り残す   使ひ回し終ひ打水風立ちぬ   子の笑がほ泣きがほ雛すましがほ   大声の子供班長草紅葉   桜蘂降るこの道の行き止まり   青芒知らぬ間に人傷つけて   雷鳴やベートーベン奇数シンフォニー   秋茄子の茄子紺漬かりよろしかり   つく...

杉山一陽「しゃっくりを忘る夕の大くしゃみ」(『案山子』)・・

イメージ
  杉山一陽第一句集『案山子(かがし)』(コールサック社)、その「あとがき」に、   突然、漢方医に腎虚と宣告されました。この年になって人の秋を知る。 「昨年出来たことが今年は出来ない」、「おそらく、今年出来たことが来年出来ない」を実感しました。 「絵は人生を映すもの」という、私の絵描きとしての立ち位置の通り「俳句は人生を映すもの」という立ち位置で、この句集『案山子 (かがし) 』を作りたいと思い立ちました。 (中略)  これは道半ばで、本句集には無季、季重、三段切れ、観音開き、自由律、乱調、中八、文語口語の混在、新旧仮名の混在、果ては短歌まで含まれています。 (中略)  お陰様で、作者、在世のうちに句集『案山子』が完成しそうです。  とある。従って、表紙絵は、絵描きである本名・杉山陽一である。題字も杉山とし子、とあるから近親の方であろう。ともあれ、愚生好みに偏するが、本集より、いくつかの句を挙げておこう。   まず海の日の出を受けるみかん山       一陽    交叉点音だけ急ぐ消防車   エサやりを忘れていたに寒卵   私が虫でも旨そうなキャベツ   噴水のあるようでなしリズム感   焚火する種火の新聞紙の匂う   石神井へ亀の鳴き音聞きに来よ   旅かばんおととしの空入れたまま   妻籠 (つまごめ) の秋の泉の水みくじ   麦の秋熟れて乾きてゴッホの黄     杖櫂 (つえかい) に渡る歩道や彼岸まで   細雪蛇(じゃ)の目(め)を出ずる別れかな   核戦争今年は無事に初日の出   かたぐるま子供が高し秋祭り   廃校の子らの幻炎天下   エスカレーター残暑の街にせり上がり   どのむくろから落ちたのか桜貝   閉じた目の今際 (いまわ) の涙干 (ひ) る前に母の面影胸に刻まむ  杉山一陽(すぎやま・いちよう) 1946年、東京新橋生まれ。      撮影・中西ひろ美「待つとする冬の苺のめでたさを」↑

佐山哲郎「グロンサン内服液を屠蘇とする」(『わなん【和南】』)・・

イメージ
  佐山哲郎第4句集『わなん【和南】』(西田書店)、帯の表と背には、   コクリコ坂和尚と終活俳句探偵団  快作『じたん【事譚】』から名著『娑婆娑婆』をはさみ23年。  俳人は「旅宿の境界」に生きる。  稀代の俳人、最後の句集  とある。跋文は金井真紀「西念寺で遊ぶ人たち」、その中に、 (前略) 西念寺の句会には、夏と冬に名物がある。  8月19日、つまり「俳句の日」に行われるのが「短冊供養」なる謎の宗教イベントだ。烏鷺坊さんにより解説は以下のとおり。 (中略)   烏鷺坊さんは「短冊供養は当寺に江戸時代から伝わる風習」とかなんとか言っているけど、真相はわからない。  儀式は夕刻に始まる。本堂の阿弥陀如来像の前に短冊が積み上げられ、袈裟を身にまとっ烏鷺坊さんがまじめくさってお経をあげる。いつも騒々しい俳人たちも、このときばかりは神妙な顔つきで整列し、順番にお焼香をする。わたしもいそいそと前に進み出て、名目合掌。 (中略)  ずいぶん前に中嶋いづるさんが亡くなっったとき、俳句ともだちで寄せ書きをした。寄せ書きの帳面がまわってきて、なにを書こうか迷って、前のほうのページをめくってみた。長谷川裕さんが、あのおおらかでやさしい字で、  「楽しかったよ。また遊ぼうね」  と書いていて、それが強く印象に残っている。  存分に遊んで、別れ際には「楽しかったよ。また遊ぼうね」と言う。生きるってそういうことだよな、としみじみ思う。  とあった。思えば、中嶋いづるは現俳協の青年部の創設メンバーの一人だった。愚生もまた、「楽しかったよ」と言おう、と改めて思った(でも、早すぎたよ・・)。  また、著者「あとがき」には、   第三句集『娑婆娑婆』から十三年。いろいろなことがあった。大事な先輩、友人、後輩までもが次々と往詣楽邦、すなわちお浄土へと旅立った。  当人の私は、というと、重度の心筋梗塞で救急搬送され九死に一生を得たものの、そのリハビリ中に癌が発見され、既に肺と肝臓に転移があるという。  ふうん、人生最末尾、一気にいろいろ来るもんだなあ。というわけで殊勝にも終活を考えてみることにした。が、何から手をつければいいか見当がつかない。とりあえず横道へ逸れて、作りぱなっしで取り散らかったまんまの俳句でもせいりするか、という、いつもの仕儀ににあいなった。  とあった。ともあれ、愚生好みに...