上野晴子「一隅にいつもさびしき風の吹くおのが心をはかりかねつつ」(『蕨の家/上野英信と晴子』より)・・
上野朱著『蕨の家/上野英信と晴子』(海鳥社)、その「はじめに」に、
一九九六年四月、筑豊文庫の建物は姿を消した。上野英信(えいしん)、晴子(はるこ)、朱(あかし)の私たち親子三人が筑豊炭田の一隅、福岡県鞍手(くらて)に移り住んだのは、世の中が東京オリンピックに浮かれ、明るい豊かな未来を夢見ていた一九六四年の春のこと、それから三十二年がたっていた。
崩れかけた共同便所の跡に建てられた台所と風呂と座敷二間の小さな家を出発点として、そばのこれも崩れかけた坑夫長屋を補修。図書室、剣道場兼集会所、事務室、居間を備えた「筑豊文庫」として正式に発足したのが一九六五年一月十五日である。
その門出に父は近隣の人々や支援の仲間を招き、次のような宣言文を掲げた。
筑豊が暗黒と汚辱の廃墟として滅びることを拒み、未来の真に人間的なるものの光明と英智の火種であることを欲する人びとによって創立されたこも筑豊文庫を足場として、われわれは炭鉱労働者の自立と解放のためにすべてをささげて闘うことをここに宣言する。
やや力みも見えるこの宣言文は、言ってみれば父の、自分自身への決意の確認であろう。炭鉱の記録者として自らをこの廃鉱集落に埋め、この地で日本の近代と闘うのだという出陣の前のような高揚した意識が、こうした調子の高い宣言文を書かせたのではないかと思う。
とあり、そして、中の「ハルマゲドン」の項に、
「いらんばい、を三回言うたらね、たいがいみんなかえるんよ」と笑ったのは、北九州市の印刷屋さんで絵草紙作家の故・山福康政さんだった。山福一家とは家族ぐるみでの長いつきあいだったが、もろもろの勧誘をいかに断るかという話になったときのことだ。(以下略)
とあった。ここに来て愚生は、山福康政という名に、かつての穴井太の俳誌「天籟通信」の表紙を飾っていた版画を思い起こしたのだ。山福印刷という名もあったな・・・と。その娘さんの版画家・山福朱美のパートナーがたしか、愚生の友人の末森英機の子息であったはずだ・・と。不思議な縁もあるものである。
上野朱(うえの・あかし) 1956年、福岡市生まれ。
というわけで、以下には、現在まで続き、今年、創刊60周年を迎える「天籟通信」2025年1月号・第719号(現在の編集発行人は福本弘明)から、同人諸氏のいくつかの句を挙げておきたい。
えごの木の実や無味無臭有毒なり 佐藤文子
蓑虫のゆらりと揺れて彼岸まで 中村重義
曼殊沙華群れて空家にしてしまう 福本弘明
海地獄霧ひしひしと身を打てり 松岡耕作
北風は遅れをとっているらしい 三舩煕子
枯螳螂世界を救ふ気でをりぬ 森さかえ
人は背を見せて行き交う秋の空 夢野はる香
さかさまの世に手を入れるもみじ谷 上野一子
離れ咲くこすもす一本背を伸ばす 木下真理子
そういえば、穴井太の初期に、次の句があった。
吉良常となづけし鶏は孤独らし 穴井 太
鈴木純一「すきだけどきらいなふたり冬薔薇」↑
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