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桑原三郎「ミサイルは宙に新酒は盃に」(『だんだん』)・・

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  桑原三郎第9句集『だんだん』(ふらんす堂)、著者「あとがき」の中に、 (前略) これまでの人生、一生、晩年などと言葉にしてきましたが、生老病死という言葉があるように、人生にはなってみなければ分からないことも多くあることを実感しているこの頃です。ただ、俳句があって私の人生に幾分の花が添えられたとの思いもうちにあります。  なお一層老後を究めつつ俳句に付き合って行くつもりの現在ではあります。  とあった。集名に因む句は、    だんだんに一年早し日短か     三郎   であろう。桑原三郎というとすぐ思い出すことがある。確か、「渦」50周年記念会に桑原三郎ともどもパネリストで招かれ、懇親会の夜も更けて、今夜はどこに泊まるか聞いたとき、まだ決めていないと、飄然と答えられ、泊まるところくらいは何とかなるさ、という悠然とした感じに少し驚いた。思わず、ボクのところのツインが一つ空いてます、言って、一緒に泊まったことがある。もう15年くらい前のことになるだろうか。それ以前に、まだまだ若かったころ、句会でよく高点をとられていたので、その時は、「点を取れるような句は簡単に作れるんだよ」とおっしゃっていたのが印象に残っている。ともあれ、本集より、愚生好みになるが、いくつかの句を挙げておきたい。    レコードに一本の溝敗戦日    有難く疲れし足や寺小春   葉桜や穴寠れたる腰べると   月面に影の地球や雁の声   空蟬は使ひ道なし棚に置く   梅ましろ入棺体験してみるか   生きてゐるうちに死にたし紫木蓮   死んでからは使はぬ頭月涼し   大雪の報の外れし兜子の忌   八月や竹槍の穂も古びたる   白髪は母似長寿はさるすべり   曼殊沙華また曼殊沙華消えてなし   初日射す鳥の形の醤油差   何枚か踏んだか四つ葉のクローバー   桑原三郎(くわばら・さぶろう) 1933年、埼玉県生まれ。           芽夢野うのき「夕暮れの丘の憂いと吾亦紅」↑

鈴木六林男「われわれとわかれしわれにいなびかり」(『鈴木六林男の百句』より)・・

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  高橋修宏著『鈴木六林男の百句』(ふらんす堂)、巻末に「〈戦後を問い続ける――鈴木六林男小論」が収載されている。その中に、  (前略) 六林男の職場俳句で、まず注目しておきたいのは、当時盛んに賞揚された〈聖戦俳句〉から見事に切れていることだ。極限的な戦場を自らの生活の場として捉えることで、〈死〉を再生産するしかない戦場の本質を、深く認識しえたためであろう。また、その表現的な水準において、これまでにない自立した言語空間を志向した新興俳句の影響を見逃すことはできない。 (中略)  その後、六林男は〈社会性俳句〉の代表的な作家のひとりと呼ばれていくが、現在から眺め返してみると、明らかにエコール(派)としての〈社会性俳句〉との異和の方が際立っている。その中心において、しばしば唱えられた社会主義リアリズムという主張に対しても、六林男は同調していない。 (中略) 文学的なエコール(派)とは、つねに距離を置いた単独者の場にこそ〈戦後俳句〉における六林男の位置はあった。 (中略)  敗戦後、さまざまな価値体系が流動していくなかで、それでもなお〈戦後〉という時代と相対し、俳句表現に昇華させるために六林男が手にした〈リアリズム〉 ――。(中略)   このような〈リアリズム〉を方法化させながら、六林男には、初期の戦場俳句「海のない地図」から最晩年に至るまで、〈群作〉という構成をとって発表している独自の流れがある。 (中略)  なかでも「吹田操車場」、「大王岬」、「王国」などの作品群は、冬の季節に各々の句が統一されており、〈群作〉の制作意図に従って都合の良いように季語は入れ換えられている。このように季語を自在に入れ換え、その作品群をより明確なイメージに、導くための装置として季語を活用するのが、六林男が〈季語情況論〉と呼ぶ独自な方法論であった。 (中略)  極限的な戦場を生き抜き、俳句表現によって〈戦後〉を問い続け、円熟や完成を拒み続けた鈴木六林男―。その軌跡は、今日もなお不穏な可能性を秘めたまま、未知の読者の前に開かれている。  とあった。六林男の句の鑑賞部分も紹介したかったが、本ブログの限界もあり、それは、読者諸兄姉にお任せし、直接本書に当たられたい。ここでは、句のみなるが、いくつかを以下に挙げておきたい。    蛇を知らぬ天才とゐて風の中   会ひ別る占領都市の夜の霰   遺品あり岩...

田中位和子「野ぶだうを活け部屋は野の風の中」(『銀の柄杓』)・・

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   田中位和子第一句集『銀の柄杓』(書肆麒麟)、装幀は著者自装。序や跋、「あとがき」などのはない。実にシンプルである。従って、著者略歴を全て抽いておこう。    田中位和子(たなか・みわこ)  一九九一年四月、夫の転勤に伴い香港に移住。  香港日本人クラブ俳句会に入会。俳句初体験。  一九九五年帰国。幾つかの結社を経て、  二〇一六年、俳句同人誌「円錐」に入会。  現在に至る。 とあった。ともあれ、愚生好みに偏するが、以下にいくつかの句を挙げておきたい。    ものの芽や仮住まひなる日を重ぬ        位和子    生類の嘆きの外にゐる寝釈迦   恋猫に袋小路の塀高し   蟻穴を出づるや泥を被りけり   人来たり人去り日永なるベンチ   漕ぐでなく漕がぬでもなし半仙戯   咥へられ蛇はからずも空を飛ぶ   春立や自作自演のト書き練る   垂直に水平に秋深みけり   ものの芽や心中出でぬ虫一匹   大道を飛び六方や浮かれ猫   老鶯や原野に朽ちてゐるサイロ ★閑話休題・・春風亭昇吉「名月は東に父島観測所」(TVプレバト金秋戦より)・・   昨夜、10月12日(木)TVプレバト金秋戦は、前回、予選一位で決勝進出を果たした、遊句会の仲間である春風亭昇吉が連続で出場していた。句は、夏井いつき先生の添削が入って、「 満月は東に父島間観測所 」となった。順位は5位に入り、よく健闘したと思う。因みに、優勝の一位は、森迫永依「 朝月のアザーン砂漠の空港へ 」であった。           撮影・芽夢野うのき「天上の魂も寂しや昼の秋」↑

皆川燈「カール人形お腹の傷も十三夜/あの頃は友多かりきスピッツのメリーもアヒルのガー子もゐたり」(「前書のある句の句会」)・・

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 本日、12月12日(木)は 「前書のある句の句会」(於:夕㒵亭)だった。とてもフツーとは思えない掌小説のような前書を付けた方もいた。ともあれ、以下にできるだけ引用しておきたい。    はじめ、夜には何もなかった。ンノプは「何もないってのもみっともないな」と考え、土と藁と水とをまぜ、枠の中に流し込み、表面をコテで平らにして「静の海」を作った。「これでよし、乾くまで待とう」とンノプは行ってしまった。そこへフラミンゴが来て、「こんな平らなところは見たことがないぞ、むこうまで歩いて行けるかな」と渡った。むこう側に着いたフラミンゴはすっかり嬉しくなって「歩けた」と叫んで飛んでいった。次にジャッカルが来て、「おや、フラミンゴの足跡がある。ひとつ踏んでやれ」と言って、残された足跡の上をわざと踏んで渡った。が、フラミンゴが長い2本の脚でつけた跡を、ジャッカルの短い4本の脚で踏むのは難しい。2÷4=0.5で整数にはならないので、割り切れず、うまく踏めなかった。「ちぇっ」と舌打ちしてジャッカルは行ってしまった。次に杖を突いたお婆さんが来て、「おや、フラミンゴとジャッカルは仲がいいね」と笑い、「あいつらの足を足すと4+2=6、わしの足と杖をたすと2+1=3。割り切れるな」と静の海の上を渡った。でも途中で足がずぶっと嵌って、お婆さんは転げてしまった。ンノプが戻って来てお婆さんを助けあげ、水で洗ってあげた。お婆さんは帰っていった。だが静の海は、フラミンゴとジャッカルとお婆さんの跡が付いたまま固まってしまった。だからいまでも、そのへんてこなカタチを残したまま、月は空に出て来るのさ。   十六夜左官も肘の高さにて           鈴木純一    なぜなぜなぜ   片隅に灯消壺おく虫の闇           ますだかも      鵞鳥。―—たくさんいつしよにゐるので、自分を見失わないために啼いてゐます。          (三好達治)     秋遍路そろそろそんな風も吹き        中西ひろ美       ファーブルや牧野富太郎ほどの熾烈な熱意や探求心はもてない。  でも昆虫や動物・植物・樹木など生きとし生けるものに多大な恩恵を受けているといつも感じている。  わたしの幸福感のほとんどは彼らから頂いている。    翅乾く間に濃く々と生 羽化の蝶      瀬間文乃      スカイツリー...

小倉倭子「よれよれでかつこよき紫黄天高し」(『帰心』)・・

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  小倉倭子第一句集『帰心』(書肆麒麟)、挟まれた便りに、「 この句集を企画し制作にも取り組んでくださっていた/澤好摩さんが、二〇二三年七月七日にお亡くなりになりました。/まだ形になっていなかった『帰心』を、句友?山田耕司さんがひきついで仕上げてくださいました 」とあった。栞文は山本鬼之介「江戸っ子気質」と澤好摩「初々しい情感」。装幀・表紙絵は孫の浜野穂花。まず、山本鬼之介は、   筆者が本句集の著者・小倉倭子(平成二十二年六月から本名の和子から倭子に改名)に初めて会ったのは、高尾山薬王院に建立された三橋敏雄氏の「むささびの句碑」の開眼除幕式が催された平成九年三月二十六日である。その日会場で山本紫黄から同伴した著者を紹介され、句碑の前で一緒に写真を撮り、彼女とひたこと三言話した記憶がある。その折、紫黄が「和子さんはなかなか俳句が上手くて水明の有望株だよ」と誉めていたのを今でもはっきり覚えている。 (中略)  平成十八年四月、著者は友人と語らって同人誌「円錐」の門を叩き、俳号・紫(紫黄の紫で名告りhさ「ゆかり」)で代表の澤好摩氏はじめ強者揃いの同人諸兄姉に交じり、結社誌「水明」とは異なる環境で俳句の修練を積むことになる。 とあり、澤好摩は、  (前略) 去来する俳人ひとり雪中花       母の日の句帳にネモフィラ栞とす     寝ころんで幼き頃の鰯雲     極月の物言ふ鳥が買はれゆく  著者が「去来する俳人ひとり」と言えば、それは心酔していた山本紫黄を措いて他にないだろう。「雪中花」は水仙のことを指すが、一方で調べてみると新潟の地酒に「雪中花」があった。そのあたりの心配りはさすがである。あとの三句も含めて小倉倭子には少女としての感覚や情感が失われておらず、この句集で示した世界をさらに書きすすめて戴きおたいと思う。  とあった。作品は「 円錐」と「水明合同句集」からの抜粋の三百句余りを収録し、句集名を『帰心』とした 」(「あとがき」)とある。因みに、集名に因む句は、    番鴨見詰め帰心の冬の浜        倭子  であろう。集中に山本紫黄にかかわる句が多くあるが、それは、愚生にとってもまた、愚生の若き日、「俳句評論」の句会でお会いし、紫黄の名告りとともに、偲ぶよすがともなった。ともあれ、愚生好みに偏するが、以下にいくつかの句を挙げておこう。  ...

前川佐美雄「春がすみいよよ濃くなる眞昼間のなにも見えねば大和と思へ」(『前川佐美雄歌集』より)・・

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  三枝昴光之編『前川佐美雄歌集』(書肆侃侃房)、歌集14冊,1600首を収め、『植物祭』と『大和』を完本で収載。解説は三枝昂之。その冒頭「(一)忍海という風土」に、   明治三十六年(一九〇三年)二月五日、前川佐美雄は大和に生れた。立春の日だった。「われの日はきさらぎ五日梅咲けど何ものか烈しく復讐しをる」と詠んだのは大和の国を離れて茅ケ崎に移り住んだ最初の春、昭和四十六年である。なにが復讐しているのか。「何ものか」だから分からないが、大和の民佐美雄をにとって東下りはどこか流浪の民に近いおぼつかない思いがあったのではないか。 (中略)  忍海 (おしみ) は大阪と奈良を隔てる葛城山と金剛山を仰ぐことができる。母親の里を葛城山麓に持つ司馬遼太郎は、「そんな――いわが無為に近い――土地柄のなかから、折口信夫や保田與重郎、さらにはわが前川佐美雄といった、他とは比較を絶した詩魂がうまれたのは、ふしぎな気がする。共通しているのは、いずれも大和の土(くに)の霊に根ざし、人というより、巨樹を思わせるところである」(「日本歌人」平成三年七月号)と、佐美雄風土を語っている。  とあった。解説の小見出しを示しておくと、 (二)出発、(三)『植物祭』の世界、(四)新古典派へー『白鳳』から『大和』へ、(五)危機の時代の精神―昭和十四年の佐美雄、(六)佐美雄における昭和の大戦、(七)佐美雄の敗戦期、(八)佐美雄の戦後と「鬼百首、(九)言葉遊びの人生歌、(十)東国の佐美雄、(十一)佐美雄が他界した日。  そういえば、先日亡くなった澤好摩の書肆麒麟版「俳句空間」の創刊(1986年)の集いに、三枝昂之が駆け付けてくれた。その折り、その創刊号に詩歌の多くの版元の広告が出ていたのを見て、これを集めたのは誰?と聞きかれた。愚生は、当時の職場の吉祥寺弘栄堂書店が、国鉄孫会社、鉄道弘済会(キヨスク)の全額出資子会社でかつ書店の売り上げは全国書店のベストテンに入っており、キヨスクには各社の週刊誌の売り上げが多くを占めていたので、今でいう、忖度が働いて、ほとんどが二つ返事の出稿だったのである。もう35年ほど前の話だ。このことは、後に、「俳句空間」第6号(1988年)より、弘栄堂書店から発行されるようになり、全国書店販売への道をひらくことになる取次であるトーハン、日販との取引開始にもそうした事情が反映して...

若井新一「鳥雲に羽なきものは腕を組み」(『自註現代俳句シリーズ・若井新一集』より)・・

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  自註現代俳句シリーズ13期・19『若井新一集』(俳人協会)、その「あとがき」に、  昭和五十四年に俳句を始めて、四十四年。 (中略)   楽しみつつ多作を心掛け、気が付くともう、後期高齢者になってしまっている。青年後期、中年期、前期高齢者という時代を経て、今日があるわけであり、ただ、目をつむりその頃を振り返ると、どの年齢の時の句にも十分懐かしさがあり、景観が爽やかに蘇る。  句作の成長は遅いが、この一冊の発刊を契機として、次の新しい句作への踏み台としたいと思っている。  とあった。句の自註の例を二、三あげて、他は句のみをいくつか挙げておきたい。     はるかよろ秋運びくる波頭 (なみがしら)   昭和五四作  俳句を始めて二年目。新潟の浜辺より沖を眺めての作句。「花守」志城柏(目崎徳衛)先生は、危なかっしい表現とおっしゃった。「花守」の初巻頭。    雪囲ひ六尺はづし柩出す          昭和六三年作  死亡は二月と八月が最も多い。病人が凌ぐのに厳しい気候のためであろう。遺体を霊柩車へ移すのは玄関ではなく、座敷から外へ出すのが慣習。    塩味の濃き粥かけて成木責 (なりきぜめ)    平成元年昨  秋の果物といえば、昔は柿が王者。甘柿はもとより、渋柿も醂し柿や干し柿にし、渋抜きをして食す。柿の幹に塩辛い粥をかけ、今年の多産を促す。    両眼を闇にひらきて水盗む         平成一六年昨  ダムを作り土地改良を実施。用水の管理ができ水喧嘩は減った。が、用水の少ない扇状地の稲作は水の盗み合いがあり、人目を避けて夜中に実行。    仏壇の中までおよび稲埃    炉話やあぐらに乗せて子のあぐら    太陽に額づくごとし田草取り    ゆふぐれのなかなかに来ず白牡丹 (はくぼたん)      西行に逢ふまで行かむ花の山    寒林や人にけものに目の二つ    闘ひつつなごみつつ雪降れり    行く秋の真水平らを尽しけり    かの世より頭 (こうべ) の覗く蕗の薹    天日を重しおもしと百日紅    越後はも止むこと知らぬ春の雪    いつの世の星と別れし螢かな    真白なる雪の地獄に住まひけり    根の国をまさぐりてゐる蓮根掘    青稲のさゆらぎもなき真昼かな  若井新一(わかい・しんいち) 1947年、新潟県生まれ。 ★閑話休題・・山内将...