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中西ひろ美「或る日よくなるなにもかもももの花」(「垂人(たると)」47より)・・

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 「垂人(たると)」47(編集・発行 広瀬ちえみ/中西ひろ美)、「夕㒵亭連句 百韻『俳諧の」から、下段の留書を少し紹介したい(中西記)。      『(今日の)の百韻は、四折に分けて同時進行ですすめてみたいと思います。百韻を普通にやるとどんなに急いでも七~八時間かかりますが、これですと五時間以内で首尾出来ると思います。雀羅』  七月十三日の夕㒵亭興行は、雀羅さん発案の「四折同時進行百韻」の試みです。 (中略)  当日は。連衆が三々五々集合し、表(八句)を巻いた後は、四折のどこに句を付けても構わないという、だれも経験したことのない連句の渦に身を投じたのです。 (中略)   雀羅さん捌きの連句は、捌きの名前を載せていません。それは「捌きの名は必要ない」という雀羅さんの意に添ったものですが、「捌きの名前を入れてほしい」と一座の方に言われることがあります。 (中略) 雀羅さんが試みた新方式の百韻を掲載させていただくこの機会に、雀羅さんの捌きに対する考えが記されている文を引用させていただきたいと思います。  「満尾作品は捌き一存で直してしまうことがほとんどですが、連衆の知恵と感性を総動員して決定稿を作るプロセスの方が、ほんとはずっと大事と思います。現代の連句作品に捌き名を冠する習慣が出来ているのは、捌きの役割を過大評価するところから生まれた現象と思います。捌き名を付けないと捌いても張り合いがないと感じる人が多いのか、何十年も続く通弊です。これもいつ頃から出来た習慣か調べてみるのも面白いです。そして何故それが定着してしまったのか。ここを乗りこえたらこれまでと違う連句も出来ると思います。」(二〇二四年一月四日「喫茶去」佛渕雀羅コメントより) とあった。その表八句を以下にあげる。    俳諧の二河白道を揚羽かな       雀羅    微糖炭酸裸身輝き         ひろ美   雨脚は太き斜線の連なりて       文乃    匂う夕刊自転車に積み        舞   夜型が朝型に会う午前四時      ひろ美    鳩小屋の戸は開かれたまま      文乃   書き残す文もあるかと見渡せば    なそり    人の心を笑う凍月          舞 他に、中西ひろ美「短句の字余り―ー雀連会7・芭蕉七部集講読順不同レポート」には、   芭蕉七部集講読が進むにつれ、芭蕉俳...

さとう野火「白く生まれ馬酔木花房陽を散らす」(真如堂法輪院墓碑・爲文學野火浩照居士零位より)・・

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    愚生は昨夕、四国新居浜で行われた、立命館大学百万辺寮々生の集いの帰途、京都に一泊して帰京した。京都では、「立命俳句」の創立者のひとりだったさとう野火の墓参りを、愚生と同じ百万遍寮生でかつ「立命俳句」7号では一緒だった安田惠(彼は、寮への機動隊導入で一朝、着の身着のまま放り出された)とともに春雨のなかを参った(真如堂前のバス停留所からけっこうな坂道を歩いた。安田に登れますか?と言われながら)。  愚生は、さとう野火と出会わなければ、ここまで俳句を続けていたかどうかは分からない。さとう野火は、その後、愚生も含め、久保純夫、城貴代美、岡田耕治。東野月沼、土井英一、北野真輝等を擁して戦無派集団「獣園」を創刊した。  さとう野火(浩)2012年7月26日没、享年71。  その日は、旅館・三木半に宿泊した。ここで、珍しいものに出合った。旧知の眞鍋呉夫、茨木和生、西村和子、山本洋子などの色紙が飾られていたのだ。思わず、一句詠んだ。     春灯し くれおまなべの 句に会いし     恒行   三木半旅館の色紙・一番右上が眞鍋呉夫「釘隠良夜の釘を隠しをり」、茨木和生「傷舐めて母は全能桃の花」、西村和子「黒谷の松吹く雪となりにけり」など↑ ★閑話休題・・書肆山田・大泉史世さんの墓にお参りした(知恩院)・・  翌日は、知恩院納骨堂に合祀されている大泉史世の霊に花を手向けた。最近、夫君だった鈴木一民が高橋順子「 詩を書くことは生きる励み 」(「巨福」令和6年雨安吾 第119号)を送ってくれていた。文中に、高橋順子の夫だった車谷長吉のことはもちろんだが、大泉さんへの記述もあった。それには、 (前略) 大学で終生の友人になった人に出会った。大泉史世。彼女はもの静かだが、聞くべき一家言を放ち、お酒が好きで不良で、親しくなった。「あなたは感受性の横溢です」という手紙をくれた。理性的な人だったが、内には烈しさを秘めていた。 (中略)  じきに彼女は独立を果たし、「書肆山田」という出版社を鈴木一民とともに経営。詩の雑誌「潭」や「るしおる」を刊行、翻訳書にも力をそそいだが、営業的に成功とはいえなかったようだ。自費出版の詩集はかなりの数に上り、疲労困憊しただろうが、装丁家としての腕を上げ、評判をとった。詩を書く人たちを応援することが彼女の「詩」だったのか。自分では一冊の本も書か...

小野初江「花降る日はるかをたたむ水の音」(「LOTUS」第54号より)・・

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「LOTUS」第54号(発行人:酒巻英一郎)、特集は「小野初江誌上句集『花降る日』評」。 誌上句集『花降る日』の評は、田中泥炭(ビート)「鶴の連理のそして宙―—小野初江『花降る日』句集評―—」、いなば也(なり)「境涯に立つ小さきものよ」、志賀康「小野初江誌上句集―—その深層をさぐる」、他に各同人による一句鑑賞がある。誌上句集の巻末の「ひとこと」には、  (前略) これが出版されます頃、私は九十五歳、学齢まで生きられないと医師に宣告され、祈祷師から字名をもらったほどの虚弱児がこれほど存える不思議、気づけばそれはひとえに俳句によって生かされているという事に尽きるのでした。  他に追悼記事として「追悼 奥山人」には、     悼  パリ在「LOTUS」同人奥山人(本名 奥山公一・きみひろ)は  去る令和六年四月八日逝去いたしました。享年七十七  深くご冥福を祈りたいと思います              合掌                           LOTUS発行人  奥山さんは一九四六(昭和二十一)年十月六日 東京生  十八歳にして単身渡仏 美術商 美術関連の出版を営む  生前漢字字形を解体し多行俳句作品を成した句集『字貌字声集』(自家版)没後刊行に『パリ ある日』あり  「LOTUS」には第四十九号(二〇二二・二)より参加  とあった。ともあれ、本誌本号よりいくつかの句を挙げておこう。    探偵は寡黙美しき失踪家           三上 泉   骨肉の意味に沁みいる月かり          奥山人   畦道はあの子が踏んだ草いきれ        小野初江    千年後月光の髪切り落とす          表健太郎    月宮や姫あじさいの黒しずく         九堂夜想    青と青の間 (あわい) に残る青        熊谷陽一    古暦より遠 (おち) のさきなる沼明かり    三枝桂子       あめふらし   くじればあめの   いたるかな                酒巻英一郎       連山の音便として鷹の舞           志賀 康    雑排と婬酒に溺れ藤袴            曾根 毅    発泡性の駅を 放し飼い・・(思惟)     古田嘉彦    鮟鱇を吊るし切りして『月光口碑』      松本光雄       殷...

中井三好「命のカプセルがぶるっ蝌蚪(かと)の紐」(『「や」「かな」「けり」捨ててこそ……』)・・

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 中井三好著『口語体俳句論・句集 「や」「かな」「けり」捨ててこそ……』(彩流社)、その「はじめに」に、  俳句で最も魅力あることばは、なんと言っても「何々や」「何々かな」「何々けり」と気分よく詠み上げることばである。 (中略)   この切れ字は日常のことばづかいの中から生まれたのではなく、これは、文字で書くことばとして発達してきたもので、これらの文章の体裁 (ていさい) を文語体 (ぶんごたい) と言っている。芭蕉も人と話をするとき、「何々や」とか「何々けり」などとは言わないで、普通の口語体で話をしていたと思われる。 (中略)   ところが、この人たちが何故か俳句では、慣れない文語体を使っているのである。 (中略)   これは、俳句づくりの時間を自分の感性を磨くことに費やすのではなく、衒った古語のことば探しに費やしているからである。あたら感性を、文語体という面倒なレンズの屈折を経て表現しようとしているから、こうしたことが起きるのである。 (中略)  私の口語体俳句は、一般に人々が口語体として思い描く自由律ではない。五・七・五の十七文字の定型である。これはゆるがない志向である。  とあった。本書の後半は、句集『口語体句集―—ちょっとした町で』である。序文は山崎ひさを「序に代えて」である。その中に、   作者は、有季定型、文語体の俳句に合わせて、今後の俳句の在るべき方向として、いわゆる口語体俳句を指標し、その実作を熱心に試みておられる。すでに二十数年の実作経験を重ねてこられた。  とある。ともあれ、集中より、いくつかの句を挙げておこう。   B29が来たときもホタルの夜          三好    絵に描けば故郷の雪があたたかい   木枯らしがぶつかっている服部時計店   亀の子が逃げる香具師 (やし) の手掃き寄せる   豚一頭売られた後の春の泥   出稼ぎの村賑わって霜柱      スペイン・ゲルニカの前で   轟々とと春夏秋冬崩れ行く      北海道・日高、沙流川(さるがわ)を見下ろす丘で   寝ころべばコロボックルが出てきそう   油蝉殻に残した白い緒 (いと)  中井三好(なかい・みよし) 1937年、富山県生まれ。     撮影・中西ひろ美「三月や野も雨もまだ知らぬ靴」↑

穴井太「ゆう空の雲のおばけへはないちもんめ」(「天籟通信」3月号・第721号より)・・

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 「天籟通信」3月号・第721号/「天籟通信」60周年記念号(天籟俳句会)、福本弘明「創刊60周年を迎えて/創刊の理念」には、  昭和40年に誕生した「天籟通信」は、令和7年(昭和100年)の今年、創刊60周年を迎えた。長寿の祝いは還暦から始まる。まずは素直に、これまで一度の欠号もなく発行できたことを喜びたい。 (中略)   「天籟通信」は「高く遊ぶ」ことを標榜している。創刊時の句会の活況は、穴井太の言葉を借りれば、詩的水準の高さと批評の高さ、混沌を極めた討論をもって参加者に俳句に倒する意欲を湧出させたからだと言う。 (中略)   俳句に対する考え方はいろいろあって当然である。いろいろな考えに触れながら、俳句は自得するもの。「自得」は、穴井太がよく口にした言葉のひとつである。自分の作品は自分がつくるしかない。  「天籟通信」は俳句を書く場であって、作品の方向を示すところではない。今後も「天籟通信」に集う人たちが楽しみながら、高く遊ぶ場をめざし続けることを願う。  とあり、その他、エッセイの増田連「創刊号をめぐっての私的回想」には、 (前略) 〈何しろ自分のポケット・マネーでやるのだから・・・〉と相談された。―—これが穴井と山福康政との出合いで、「天籟通信」発展の出発点になったのである。(と僕は思っている)  僕は穴井と一緒に〈山福印刷所〉に行って二人を引き合わせた。話している間に二人は直ぐ意気投合したようで僕は安心したし嬉しく思った。こうして一九九六年に「天籟通信」11号が発刊になった。実質上の創刊号である。たった八頁に薄ペラな冊子で、出句者は十七名(だったと思う)。値段は五十円である。 とあった。その他の論に、谷口慎也「 穴井太は現在進行形 」、佐藤文子「 〈天籟通信の思い出〉師は一人 」、原しょう子「 人生の半分俳句 」、堀本吟「 『未来派』管見**遠望の過去・遠望の未来 」、櫻木美保子「三 年六組『私たちの穴井先生』 」など。愚生にもっとも嬉しかったことは、「天籟通信探訪」として、過去の記事から、各年代のいくつかを読むことができたことだ。例えば、増田連「 『伝説・杉田久女伝』ノート 」、天籟塾「 石牟礼道子・聞書Ⅰ・Ⅱ 」など。ともあれ、以下に「 私が好きな私の一句/自句自解 」から句を挙げておこう。   若妻のひらりと跨ぐ初氷         今岡直...

攝津幸彦「南浦和のダリヤを仮のあはれとす」(『語りたい俳人 師を語る友を語る…24人の証言』より)・・

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  董振華(とうしんか)聞き手・編著『語りたい俳人 師を語る友を語る…24人の証言』上・下巻(コールサック社)。上巻(カッコ内は語られた俳人)は中原道夫(福永耕二)、仁平勝(攝津幸彦)、西村和子(清崎敏郎)、奥坂まや(飯島晴子)、岸本尚毅(田中裕明)、小澤實(藤田湘子)、保坂敏子(福田甲子雄)、長谷川櫂(川崎展宏)、安西篤(阿部完市)、筑紫磐井(加藤郁乎)、森澤程(和田悟朗)、下巻は津川絵理子(鷲谷菜七子)、仲村青彦(岡本眸)、井上康明(廣瀬直人)、仲寒蟬(大牧広)、西村我尼吾(有馬朗人)、山田貴世(倉橋羊村)、角谷昌子(鍵和田秞子)、三村純也(稲畑汀子)、中岡毅雄(友岡子郷)、井上弘美(大石悦子)、井口時男(齋藤愼爾)、片山由美子(鷹羽狩行)の以上。 ここでは、「仁平勝が語る 攝津幸彦」のみになるが、少しだが紹介したい。 (前略) 彼が神代辰巳と荒木経惟にひかれていたのは、そこに人間の通俗性を謳歌する表現があったからだと思います。そして攝津自身もしばしば下ネタの破礼句を好んで作った。今回選んだ二十句の中にも、その一つを入れておきました。    往生のついでに紙を貰ひうく    「往生」とは、つまりセックスのことです。攝津はこういう隠語を使うのが好きでしたが、その行為を露骨に詠んだのでは俳句にならない。ここでは、コトが済んで身体を紙で拭く場面を、「紙をお貰ひうく」と詠んでみせた。「つひでに」というところがなんとも可笑しい。  彼のような才能は、少し時代がずれれば、俳句という形式には関わらなかったかもしれません。逆にいえば、攝津幸彦という俳人の登場はじつに時代的な現象なのです。 (中略)    野を帰る父のひとりは化粧して  これは「父」と「化粧」の取合せです。「野を帰る」というのは仕事帰りの比喩ですが、「化粧」は別に比喩ではない。ゲイバーに勤める男でもいいし、チンドン屋でもいい。すなわち「父」は、一家を支えるために化粧もするということです。 (中略)  俳句を一物仕立てと取合せの二種類に分けたがる人や、取合せというのは二句一章の形だと思い込んでいる人は、やはりこれが取合せといっても納得しません、けれども俳諧の取合せは、取りはやしとセットであり、攝津もまた、取合せが一つの場面として成り立つように取りはやしている。今日では疎かにされている取りはやしを復権させてい...

安西篤「梅咲いて卑弥呼くすりと笑みこぼす」(「現代俳句」3月号より)・・

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  「現代俳句」3月号(現代俳句協会)、このところ話題のぼることの多いユネスコ無形文化遺産登録推進協議会について、筑紫磐井が「有馬朗人の言いたかったこと」と題して以下のように述べている。十分とはいかないが、少しばかり引用紹介しておこう。 (前略) これらの論の中で有馬朗人氏の発言がしばしば引用されている。しかし、有馬氏の発言がどのようなものであったかは少し吟味が必要である。  大分古いこととなるが、愛媛県で開かれた「国際俳句コンベンション」(一九九九年九月)で有馬氏は、「俳句よりハイクへ」という基調講演を行っている。 (中略)   有馬氏はここで、俳句には季語を持ち折るものと季語を用いないものがあると明確に述べている。 (中略) 二〇〇〇年には追補として「松山メッセージ」を公表し、この中で、「季語が俳句を生むのではない。」という野心的なメッセージを述べている(このメッセージの起草には私も参加している)。 (中略)  有馬氏が、ユネスコ登録によって無季俳句を排除しようとしたとする論述は、俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会の発足に当たり、毎日新聞のインタビュー(二〇一七年四月二十四日)で有馬氏が発言したとされる内容によるらしい。 (中略)  俳句から無季を除外しよとする論理的な発言はないようである。しかししれでも国際俳句賞の有馬氏の講演と大分違う。 (中略) 有馬氏が発起人会で現実に言った発言を当日のビデオから聞き取ってみたのが以下だ。新聞インタビューでは微妙なニュアンスが変えられているようだ。 (中略)  有馬氏が繰り返し言っているのは、俳句とは「五七五の定型と季題季語+その周辺」であるということである。この続きでは、「少し広く」する理由は、中国の漢俳、米国ヨーロッパの三行詩をながめそこまで広げてゆく可能性があるからだと述べている。 (中略)  言っておくが、「例外」と「周辺」は大きく違う。 (中略)  だからユネスコ登録に当たり俳句に無季が入らないと言い出したのは有馬氏以降のことであるようだ。例えば、有馬協議会会長の後任となった能村会長が令和六年の年頭挨拶で「俳句は、五七五という短い韻文に「季語」をいれるという最低限のルールをもとに、誰でも自由に作ることができます」と発言している(俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会ニュースレター令和六年六月六日号)。...